東条城 |
別名 | |
所在地 | 吉良町駮馬城山 |
遺構等 | 模擬櫓、土塁、虎口、碑、説明板 |
現状 | 公園 |
築城年 | 貞応年間(1223頃) |
築城者 | 足利義氏 |
歴代城主 | 足利、吉良 |
形式 | 平山城(比20m) |
訪城日 | 2005/3/12 |
とうじょうじょう |
県道42号「寺島」信号を東へと県道318号に入ります。500m程東進した右手が城跡です。道路に「東条城」の案内がでており、城跡入口を過ぎた右手に無料駐車場も整備されています。 |
平成元年のふるさと創生1億円でこのお城は公園として整備され、櫓が造られた。虎口、空堀、土塁が明瞭に残っており、八幡神社は二の丸で土塁が残っています。また、道路を挟んだ北側のみかん畑の奥の墓地にも土塁が残っています。 |
三河吉良氏の本城。承久3年(1221)足利義氏が承久の乱の戦功で三河国守護職に任じられ築城した。その際、西条城は長男・長氏を置き、東条城には三男・義継を置いた。5代目・満家の時、観応2年(正平6、1351)頃、奥州管領の地位を確立した。奥州出兵で空いた東条城へ、西条吉良氏・満義の三男・尊義が入り、10代・義昭まで続いた。永禄4年(1561)松平元康が攻め西条城は落城し、東条城は義昭が和睦を願い出たため鳥居忠吉と松平信一が入った。永禄6年、三河一向一揆が勃発すると、許されて岡山城に居た義昭は家康に背いて東条城に入り、一揆方の将として戦った。しかし翌年、一揆との和議が成立し、義昭は城を追われた。その後、東条城には家康の家臣が入ったが、天正18年(1590)家康の関東移封に伴い廃城となった。 |
東条城縄張図 原図:石川浩治氏 愛知県中世城館跡調査報告書U(西三河地区)より |
墓地に残る虎口 |