岩屋城 |
別名 | |||
所在地 | 岡山県津山市中北上 | ||
遺構等 | 曲輪、土塁、堀切、石垣、竪堀、碑、説明板 | ||
現状 | 山林 | ||
築城年 | 嘉吉元年(1441) | ||
築城者 | 山名教清 | ||
歴代城主 | 山名氏、中村氏、浜口氏 | ||
形式 | 山城(比310m、Pから比250m、標483m) 登城口から馬場跡まで約30分 |
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訪城日 | 2010/5 | 感想 |
嘉吉元年(1441)、山名教清が赤松満祐討伐(嘉吉の変)の戦功により美作国守護に任ぜられ築城した。応仁元年、応仁の乱(1467〜77)勃発で、山名政清(教清の子)が上洛した隙に播磨の赤松政則が城を落して属将に守らせ、文明5年(1473)には政則が美作国守護になった。永正17年(1520)赤松氏部将の備前浦上村宗が謀反を起こし岩屋城を奪取、中村則久を城主に置いた。天文13年(1544)出雲尼子氏の美作進出に伴い、城主中村則治(則久の子)は尼子氏に属したが、永禄11年(1568)頃、則治は芦田正家に殺され、正家は浦上氏に代わり勢力を拡大していた宇喜多直家の傘下となったが、天正元年(1573)直家の将・浜口家職が城主となった。天正7年以降、宇喜多氏が毛利氏を離れ織田氏に属したため、再び美作の諸城は争乱となり、天正9年、毛利支配下の中村頼宗や大原主計介らに攻略され、中村頼宗が城主となり再び毛利氏の勢力下となった。天正10年、織田氏と毛利氏の攻防は備中高松城の開城により終わったが、領土境の争いから宇喜多氏と毛利方は衝突し、前将軍足利義昭の調停で和議が成立し毛利方の城は全て開城された。以後、宇喜多氏の支配下となった岩屋城には部将長船越中守が入ったが、天正18年8月、野火により焼失し廃城となったと伝えられる。 (『日本城郭大系』新人物往来社発行、現地説明板 参照) |
畝状竪堀(てのくぼり)
JR姫新線「美作追分駅」北方から国道181号で2km程東進して左折し(案内有、岩谷郵便局手前)、岩屋川沿いに1.2km程北上すると駐車場や看板があり、ここが登城口で、馬場跡まで約1.1kmです。 |
大堀切
馬場跡
いわやじょう |
5分程階段を上がると慈悲門寺下砦で段郭となり、その上に慈悲門寺・慈悲門寺西砦があります。更に山王宮、大手門、水門、竜神池、井戸等を見て、その先が馬場です。馬場は東西20m、南北108mと広く、眺望も良くて気持ちいいです。馬場から「小分城跡へ」案内に従い下りると堀切があり、その先に石橋上砦が、更に先に椿ヶ峪砦があります。先程の堀切の手前を南西へ進むとこちらも堀切があり、その先に小分城がありますが結構藪です。馬場へ戻って本丸に入ると、東西60m、南北20mの楕円形をしており、標柱や説明板があってここも整備されています。毛利氏の岩屋城攻略は、本丸北側の「落し雪隠」と呼ばれる断崖をよじ登って城内に突入したことによると伝えられます。本丸から東砦、二の丸と進み、その先の大堀切を堪能して三の丸へ。ここから岐路へと下り始めてすぐ左手に「手のくぼり」と呼ばれる畝状竪堀があり、圧巻です。このまま下ると駐車場に戻れ、また麓には屋敷跡や砦跡の標柱があちこちにあります。 |