【道案内】 |
登城口の地図 |
城跡の地図 |
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井原鉄道井原線「三谷駅」から南東へ約1.8kmの猿掛山が城。三谷駅南方から国道486号で1.2km程東進して右折、小田川を福頼橋で渡りすぐを左折し、150m程東進した右手に登り口の案内があります。この付近の余白に駐車し、案内に従い南へ進むと登城口です。 |
【感想・メモ】 |
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案内の所に資料が置いてありました。大手道を進むと10分程で寺丸に至り、更に5分程で大夫丸です。この少し上が六の丸で、順番に本丸まで広い曲輪が続きます。東側は南北に長い馬場ですが藪。三の丸は特に広く、北東に石垣、曲輪内に井戸、南東に大手門跡がありますが井戸と門跡は藪でした。本丸は南に土塁、東に石垣、南背後には谷のような大堀切があります。本丸東は巽の出丸(北方に「馬場」と表示があったが)で、出丸の南には4条の連続竪堀があり、一番東の竪堀は大きかったです。 |
【歴史】 |
建久3年(1192)、源平合戦の軍功により備中の荘園を与えられた武蔵国の武将・庄太郎家長が地頭として赴任し、山手村の幸山城へ入ったが、防御に不便だったため元久2年(1205)頃、城主庄資政の時に猿掛城を築き移ったといわれる。以後、庄氏15代が366年間にわたり備中支配の拠点とした。庄元資が城主の頃が最盛期で、元資の跡を継いだ為資は備中松山城主となり、猿掛城は一族に守らせた。その後、天正3年(1575)松山城主の三村元親を討った毛利元就の六男毛利元清が入城し、天正10年の高松城水攻めの際は毛利輝元の本陣となった。慶長5年(1600)関ヶ原合戦で西軍が敗北、元清の後を継承した毛利秀元が長府へ帰り、慶長9年(1604)、猿掛城に花房志摩守正成が5000石で入ったが、元和元年(1615)一国一城令により廃城となった。 |
【参考資料】 |
『日本城郭大系』新人物往来社発行
現地資料 |