【道案内】 |
登城口1の地図 |
登城口2の地図 |
城跡の地図 |
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登城口は西麓の千磐神社(登城口1)と北麓の「美作河井駅」(登城口2)で、いずれも駐車場完備。美作河井駅からは登りが急で麓付近は見所もないため、私は千磐神社から登り千磐神社へ下山しました。通り抜けも考えましたが、駐車場所へ戻る距離が長く、電車で戻るには本数が少なすぎて使えないためやめました。 |
【感想・メモ】 |
千磐神社から本丸まで2.4km、登山だけで1時間。登城口に登山マップが置いてありました。5分も登るとしっかりした西麓の堀切があり、その先、尾根上の曲輪やうっすら堀切もあります。更にひたすら登ると大岩・櫓台・武者隠・竪堀と立て続けにあり、そのすぐ上が西尾根曲輪です。ここがやっと中間の1.2km地点。西尾根は見所満載で、特に北面のあちこちで見られる石垣や東端の曲輪の土塁に入った石垣など石を多用している点に目を見張ります。この東の三重堀切から一旦鞍部を通り、再び登りとなり堀切や曲輪を経て南側土塁に岩が並ぶ三の丸に至ります。二の丸は北東に大空堀とありますが自然地形でしょう。最高所の本丸からは眺望が抜群で気持ち良いです。また、二の丸から北尾根へ比高約80m下ると櫓台がある土蔵郭、その下に南北に長い馬場があり、このまま美作河井駅へ下ることができます。私は馬場から55分かけて千磐神社へと来た道を戻りました。西尾根と東尾根は随分離れており、造りからも違う城といったイメージでした。かなり登るのと距離があるので、見学時間を含め3時間はみたほうが良いでしょう。尚、すぐ近くに内構(居館)もあります。 |
【歴史】 |
天文2年(1533)、美作国と因幡国に勢力を持った国人領主・草苅衡継によって築かれた。草苅氏は陸奥斯波郡草刈郷出身で、南北朝期の暦応年間(1338-42)に足利尊氏から因幡国智頭郡を与えられ移り住み、因幡の淀山城を居城としていた。永禄2年(1559)に城を継いだ衡継の子・景継は勢力の衰えた尼子氏から毛利氏に寝返り、天正2年(1574)には織田信長の勢力を恐れ織田方についた。しかし小早川隆景の知るところとなり翌天正3年に景継は自刃、弟重継が跡を継ぎ毛利氏に属した。これにより、矢筈城は宇喜多氏や織田方の秀吉らの軍勢から度々攻撃されたが撃退した。天正10年(1582)、毛利氏は備中高松城攻めで美作国は宇喜多氏へ割譲する条件で秀吉と和議した。しかし、美作の国人らは反発、重継も抵抗を続けたが、度重なる説得により天正12年開城、廃城となった。 |
【参考資料】 |
『日本城郭大系』新人物往来社発行 |