【道案内】 |
城跡の地図 |
登城口の地図 |
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倉吉市役所の南側にある打吹公園が城跡で、市役所南側の駐車場が利用できます。 |
【感想・メモ】 |
倉吉博物館の西側にある鎮霊神社は備前屋敷跡で石碑があり、山頂までしっかりした道があります。15分程登ると西尾根に櫓風の展望台があります。ここから5〜6分で備前丸に至り、更に登ると石垣がチラホラ見えます。木戸跡や桝形虎口を経て主郭へ。東北隅に天守台があり、周囲に石垣が残っています。また主要部北西には土塁のある曲輪があるのですが藪で見難く、北尾根の連続竪堀は藪が酷すぎて確認できませんでした。下山後は倉吉の白壁土蔵や赤瓦屋根の町並や山名氏豊館を楽しみました。 |
や
【歴史】 |
延文年間(1356-61)、伯耆守護・山名師義が築城し、田内城から移った。大永4年(1524)、出雲月山富田城主・尼子経久の伯耆侵攻で、山名氏の伯耆勢力は一掃された。天正8年(1580)、織田信長から中国征伐の命を受けた羽柴秀吉の鳥取城攻めに対峙するため、吉川元春がこの城に入ったが、天正10年、和議が成立し、羽衣石城主・南条元続の所領となった。慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の功で中村忠一が米子城に入ると、打吹山城には城番が置かれた。慶長14年、中村氏が嗣子なく没したため断絶となると、城は廃城となった。元和元年(1615)一国一城令により廃城となった。その後、倉吉は鳥取藩池田氏家老・荒尾志摩守が領し、山麓に陣屋を置いた。寛永9年、池田光仲が因幡・伯耆を領して備前岡山から鳥取城に入ると、家老荒尾氏が陣屋を構え、明治を迎えた。 |
【参考資料】 |
『山陰の城館跡〜攻防の跡をたずねて〜』山陰史跡整備ネットワーク会議
『日本城郭大系』新人物往来社発行 |