登城口の地図
別名 長曽我部盛親陣所
所在地 岐阜県垂井町栗原
遺構等 曲輪、土塁、空堀、説明板
現状 山林
築城年 慶長5年(1600)
築城者 長曽我部盛親
歴代城主 長曽我部盛親
形式 陣所(比146m)
登山口から陣所まで約20分
訪城日 2006/11/4
【道案内】


【感想・メモ】
くりはらやま
栗原山(西軍)
【歴史】
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説明板(フェンス右奥)
登山口
国道21号「宮代」信号を南へと県道215号に入り、東海道新幹線をくぐって更に3km程南下した路地を右折(西)します(軽トラが1台通れる程度の道です)。同じ場所で反対に左折すると100m程先(東)に八幡神社がある場所です。私は神社に車を停めて歩きました。
神社から県道215号を横切って真っ直ぐ山へと西へ登っていくと「栗原連理のサカキ、栗原九十九坊跡」の案内板がある。所々にこの案内板があるのでそれに従っていけばいい。最初の案内板から3分も登ればお地蔵さんが祭られた場所に出る。このフェンスの奥に「長曽我部盛親陣跡」の説明板がある。そこから15分も登れば「九十九坊跡」に着く。沢山の仏様がいるのだけど、ちょっと薄暗い。そこから2分も登れば「連理のサカキ」の手前の陣所となる。土塁や空掘が見られるが全体的に作りが甘い感じ。連理のサカキの前には「竹中半兵衛重治閉居地」の案内板もあった。竹中半兵衛が稲葉城を主君・斉藤龍興から簡単に乗っ取った後、龍興に城を返還してここに隠棲したといわれている。秀吉が軍師にと足を運んだのが事実なら、ここを何回も通ったのかな?
土佐22万石の領主長曽我部盛親は、関ヶ原合戦の際に西軍に属し、ここ栗原山麓に6千人の兵とともに陣をしきましたが、吉川広家の内通により傍観軍となり西軍の配色を見て戦わずして帰国の途に着きました。途中、牧田川金谷にて、松ノ木城主徳永寿昌の軍6百人、今尾城主市橋長勝の軍3百の東軍勢との間に戦いがありました。帰国後は、領地を没収され浪人となり、大坂夏の陣では豊富方で活躍しましたが、捕えられて斬首されました。(現地説明板より)
連理の榊