松前大館
別名 大館、徳山館
所在地 松前町神明、福山
遺構等 曲輪、土塁、空堀
現状 山林、徳山大神宮
築城年 応永7(1400)頃
築城者 安東氏
歴代城主 安東
形式 山城
訪城日 2008/7
14〜15世紀頃、奥州北部は南北朝両勢力の吹き溜まりとなり、地方豪族の争いが約50年続き、戦いに敗れた豪族の多くが蝦夷地に移住した。特に津軽北部で勢力を誇った安東盛季は蝦夷地も領有下とし、永享4年(1432)蝦夷地に渡り、大館を本拠とした。盛季没後、子・康季およびその子・義季は津軽で戦死した。そこで茂別館に居城していた田名部(下北)安東氏の下国安東太政季が宗家を相続し、津軽西ヶ浜から秋田檜山を本拠とし、檜山安東氏を称し蝦夷地も領有下とした。長禄元年(1457)コシャマインの戦いで大館は蝦夷によって落とされたがすぐ回復し、下国氏が守護していたが、明応2年(1493)館主・下国山城守恒季が秋田安東氏に滅ぼされ、相原彦三郎季胤・村上三河守政儀の両名が守将となった。永正9年(1512)蝦夷が各館を襲撃し、翌年には大館も攻め落とされ両将は戦死したが、これは上ノ国で武威を誇る武田信広の子・蠣崎光広の策謀によるものといわれる。永正11年、光広は長子良広と共に松前に移り大館を改装して徳山館と改めた。以後、蠣崎氏が台頭し、天正10年(1582)5代慶広は蝦夷島主という大名に準ずる地位を得て松前氏発展の礎を築いた。天正17年、大館の郭内主要部が焼失し、松前の方が海に近く交易経済に便利だったため、慶長11年(1606)前方の福山に新築した福山城に移城し、大館は廃館となった。(『日本城郭大系 1』参照)

【道案内】
城跡の地図
松前町郷土資料館の西方に徳山大神宮があります。この西側が館跡です。
【歴史】

【感想・メモ】
徳山大神宮から西側の山へ入る道を探したのですが分かりませんでした。かなり藪で、直登も無理で諦めました。また、松前公園東側から北上するとボタン園などがありますが、この東側が館跡となるのでこちらから入れるないかも確認したのですが、谷があってこちら側からも無理。どうも、徳山大神宮の手前付近に登城口があるようで、北が大館、南が小館の二つの郭から成っています。神社には、ゴローウニン幽囚の地という説明板があります。それによると、文化3〜4年(1806-1807)に起きたロシアの北辺襲撃に対する報復のため、千島列島の水路調査と測量に従事していたロシア人提督ゴローウニンが国後島へ上陸した際、6人の部下とともに南部藩の守備隊に捕えられ、高田屋嘉兵衛との交換までの文化8年8月〜文化10年8月までの間、この沢の奥に牢屋があり、幽囚されていたと記されています。
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