城跡の地図
【歴史】
館城
別名 館の新城、館村御立退所
所在地 厚沢部町館
遺構等 曲輪、土塁、空堀、碑、説明板
現状 史跡公園、農地
築城年 明治元(1868)
築城者 松前志摩守徳広
歴代城主 松前
形式 平山城
訪城日 2008/7
【道案内】

【感想・メモ】
たてじょう
TOPページへ
館中学校南方で、29号から南へと812号に入り、500m程南下して左折し、634号に入ります(道路に案内有)。800m程東進して634号は斜め右の所を直進します。更に600m程東進すると館城跡で、駐車場が完備されています。
慶応4年(1868)9月1日、松前藩主18世徳広は、福山城(松前城)の海面に対する防備が不備であると心配し、南方に深山、濁川、糠野川を三方にめぐらした要害のこの地に新城築城に着手した。これが館城で松前藩最後の城である。1万坪の敷地面積に長さ1丈の絵杭で柵を設け、南に表門、北に裏門、32間x12間の本丸や10間x8間の大広間・武士部屋・米倉等を建て、合戦の際には濁川・糠野川の水を堰きとめ、外堀に水を湛える計画だった。明治元年(1868)10月26日、五稜郭を占領した徳川脱走軍が福山城に迫ると、藩主徳広は福山城から工事中のこの館城へ移った。11月5日、福山城を占領した徳川勢は更に進んで11月15日館城を攻撃し、松前軍は奮戦するも16日に落城し、藩主徳広と内室・子息は近臣に守られ熊石に逃れた。(現地説明板参照)
城跡は一部史跡公園として整備されていますが、何となく全体としては農地といった感じです。だだっ広い農地に、土塁や空堀があり、礎石や井戸跡の案内表示があるといった雰囲気に感じられました。道路の南側には怪しげな櫓があり、その奥にも土塁や空堀があります。