城跡の地図
金ヶ崎城
別名 敦賀城
所在地 敦賀市金ケ崎町
遺構等 曲輪、竪堀、堀切、碑、説明板
現状 城址公園
築城年 延元元年(1336)
築城者 新田義貞
歴代城主 新田、朝倉
形式 山城
訪城日 2006/10/28
【道案内】


【感想・メモ】
かながさきじょう
【歴史】
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旧国道8号のあちこちに城跡の案内が出ています。河野方面から旧国道8号で敦賀市街方面へ来た場合、「金ケ崎トンネル」を過ぎ、「曙」信号を右折し、200m程行った1本目の信号を右折します。そのまま道なりに400m程行くと、敦賀港貨物線を越え、あとは金ケ崎宮を目指して行けばたどり付けます。金ヶ崎公園の駐車場、もしくはもう少し奥まで行くと、金ヶ崎宮の駐車場があります。
駐車場から城跡まで遊歩道があります。月見御殿のすぐ目の前は海ですが、断崖になっています。ここで歴史に名高い争乱があったかと思うと感慨深いです。ここから木戸跡の方へ行くと、一の木戸から三の木戸まであり、立派な堀切が見られます。
延元元年(1336)、恒良親王、尊良親王を奉じて北陸落ちした新田義貞が入城したが、足利方の越前国守護・斯波高経らの軍勢に包囲され兵糧攻めに遭う。翌年、義貞らは密かに脱出し、杣山城で態勢を整え、金ヶ崎城救援に向かうが、足利方が城内に攻め込むと、尊良親王、新田義顕(義貞嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害し、恒良親王は捕縛された。足利方の越前平定後、越前国守護代甲斐氏の一族が守備し、敦賀城と称した。 長禄3年(1459)、守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立が深まり、斯波義敏は金ヶ崎城を攻撃したが、甲斐氏に義敏は大敗した。その後、越前を掌握した朝倉氏がここを守護した。元亀元年(1570)、織田信長の越前侵攻の際、郡司朝倉景恒は朝倉方の救援が間に合わず開城した。しかし、浅井長政が離反して近江海津に進出し挟撃戦になったため、信長は木下藤吉郎らにしんがりを任せ、近江朽木越えで京に撤退した。