大倉城
寛元年間(1243-46)小笠原信濃守長清が築城し、九男与市長澄が大倉氏を称して居住したと伝えられ、永正10年(1513)頃には島津氏が堅固な山城に改修したと考えられる。川中島合戦の頃は上杉氏の勢力下にあった長沼島津氏が領有し、長沼館の詰の城として、また武田氏の北信濃侵攻に対する備えとしていた。永禄年間(1558-70)、川中島平が武田氏の勢力下となると、島津氏は土地を放棄して上杉氏を頼り越後へ奔ったため城は荒廃した。天正10年(1582)3月、武田氏滅亡と織田信長の信濃侵攻により、川中島四郡は森長可の支配する所となった。しかし翌4月、それに対抗して芋川親正を中心に土豪・地侍らによる一揆が蜂起した。一揆勢は飯山城を占拠し、長沼城を攻撃して、大倉城を修築して立て篭った。しかし激戦の末落城し、女、子供1200余名が虐殺された。(『図解 山城探訪 第十二集』、現地説明板 参照)
登城口の案内板から水路沿いを少し歩いて、説明板がある所で右手へと登り出します。登城道や城跡は整備されとても見やすく、あちこちに標柱も立っています。5分も登れば堀切が見え、三郭、二郭、主郭と一直線に続く様子や切岸にある石垣がまたいい感じです。主郭の何面にも石垣が少しあり、主郭北西には井戸郭もあります。このお城の醍醐味はナント言っても堀切!ここから西の連続堀切が素晴らしいです。とにかく谷のような深い堀が、しかも急斜面で連続してあるので、とても楽しめます。
【感想・メモ】
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【道案内】
城跡の地図
【歴史】
国道18号「大倉」信号を北へ入ると、左手に登山口の案内板があります。案内板背後に駐車スペースがあります。
別名 大蔵城
所在地 豊野町大倉字城山
遺構等 曲輪、堀切、竪堀、石垣、井戸、説明板
現状 山林
築城年 寛元年間(1243-46)
築城者 小笠原長清
歴代城主 小笠原、島津
形式 山城(比90m)
登城口から主郭まで約12分
訪城日 2008/6
おおくらじょう