大葉沢城
別名
所在地 村上市(朝日村)大場沢
遺構等 曲輪、土塁、横堀、堀切、畝状竪堀、碑、説明板
現状 山林、雷神社
築城年
築城者 鮎川氏
歴代城主 鮎川
形式 山城(比50m)
(公民館から主郭まで約10分)
訪城日 2008/5
公民館から歩き、神社の鳥居をくぐって登りだすと館跡のような雰囲気です。そのまま登りきると雷神社があり、その奥(東)が主郭です。神社から西へ進むと堀切があり、この南側から東にかけて「ゴボウ峰」と呼ばれる畝状阻塞が300m程も続き圧巻です。しかも、この堀の先が二股に分かれている所もあります。畝状阻塞の東端に堀切があり、ここから東へ150m程進むと堀切があり、その先にも郭があり、この東側にも先程より規模が小さいものの畝状阻塞があります。こんな大して高くない山で、ここまでの畝状阻塞が見られるとは!かなり楽しめるお城です。
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畝状竪堀

【感想・メモ】
【道案内】
城跡の地図
国道7号「古渡寺」信号を東へと県道349号に入り、2km程東進すると道路に城跡の案内と説明板があるのでそこを右折します。正面に大場沢公民館があるので、ここに駐車して城跡の西方から入ります。または、普済寺から登って城跡東方からも入れます。
【歴史】
築城時期は不明だが、鎌倉初期に小泉庄に入部した本庄氏庶流の鮎川氏が城主だった。鮎川氏は戦国期には宗家本庄氏と並ぶほどに成長し、天文8年(1539)鮎川清長は同族の小川長資と共に本庄城を攻め、本庄房長を敗走させた。その後、房長の子・繁長と清長は和睦したが、永禄11年(1568)武田信玄の調略により繁長が上杉謙信に叛いて本庄城に籠城したため、清長の子・盛長は謙信に与して本庄城を攻めた。この時、大葉沢城は繁長軍に攻められ落城した。慶長3年(1598)上杉景勝の会津移封に伴い、大葉沢城は廃城となった。

主郭


おおばさわじょう