城跡の地図
富崎城
別名 福山城、滝山城
所在地 富山市婦中町富崎
遺構等 曲輪、土塁、空堀、井戸
現状 山林
築城年 戦国期
築城者 神保氏
歴代城主 神保
形式 山城(比50m)
訪城日 2006/7/27
【道案内】


【感想・メモ】
とみさきじょう
【歴史】
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国道359号と国道472号が交差する「長沢」信号を南へと国道472号を南下します。700m程南下して山田川を「長沢橋」で渡り、「城山中前」信号を過ぎて300m程進んだ路地を右折します。600m程進むと道が突き当たるので右折し、200m程西進すると、右手に「本覚寺」や「八阪神社」があります。ここから道なりに丘の夢牧場や県畜産試験場方面へ500m程進んだ右側が城跡です。
手元にあった大雑把な地図を見ると、城山中学校辺りが城跡に見えたので、とりあえず中学校へ行ってみました。でも、中学校は平地にあったので城跡ではないと分かるも、学校の先生に聞いても知らないと言われてしまいました。中学校の後方に見える川に面した山が城跡に間違いがない!と思うものの、確証がないまま山城を登る気分になれず、遠景写真のみでやめてしまいました。
戦国時代、越中最大の勢力を誇った神保氏が築城した支城の1つ。富崎の地は、近くの長沢が南北朝時代より婦負郡の政治的中心地であり、射水郡から飛騨に通じる街道の要地だった。神保長職は、永禄5年(1562)上杉謙信との戦いで降り、上杉氏に属して本拠を増山城に移した。元亀2年(1571)長職が没すると、富崎城には長職の旧臣水越氏が一向一揆勢と共に篭城し、翌年謙信に攻められて落城し、城は破却された。天正年間(1573-92)、一時上杉氏が使用したが、天正9年、長職旧臣の寺嶋牛之助らがここを拠点に織田方に対抗した。しかし、同年5月、城を攻められた牛之助らは城に火を放ち、五箇山へ落ちのびた。その後、佐々成政の支城となり、城尾城の斉藤氏攻めの拠点として使われたが、佐々成政が秀吉に降伏した天正13年頃には廃城となった。