白山城
別名 鍋山砦、要害城
所在地 山梨県韮崎市神山町鍋山
遺構等 曲輪、土塁、横堀、堀切、竪堀、説明板
現状 山林
築城年 12世紀初頭
築城者 武田信義
歴代城主 武田、一条、青木、山寺
形式 山城(比120m)
登城口から主郭まで約10分
訪城日 2009/3 感想

【感想・メモ】
城跡の北側から入ることになり、10分もかからず堀切が見えて、略図三丸に着きます。この南側の土橋がとてもカッコいいです。本丸は約25m四方程の広さがあり、土塁が巡っていています。この南側にある二丸との間の横堀も素晴らしく、西側には堀切が2本あります。全体にしっかりした造りで見応えがあり、遺構も確認しやすいので楽しめます。

本丸北の土橋

本丸南の横堀

略図(現地説明板より)

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【道案内】
登城口の地図
城跡の地図
甲斐源氏逸見源太清光の子信義が生地逸見から分封して武田庄の庄官となり、武田八幡宮で元服して武田氏を称した。信義は武田に居館を構え、八幡宮の南の山に白山城を築いた。鎌倉幕府創業時の功労者であった信義だが、源頼朝に遠ざけられ、文治2年(1186)失意のうちに死去し、城は武田館と共に荒廃した。その後、武田一門の一条氏、その支族武川衆の青木氏、青木氏から分派した山寺氏が相次いで守った。天正10年(1582)、織田信長のために武田氏が滅亡したが、本能寺の変で信長が死去すると武田氏の遺領を巡り徳川氏と北条氏が争った(天正壬午の乱)。その際、武川衆は徳川氏に従い、北条への備えとして城を修築したと考えられる。江戸初期の寛文年間(1661-73)廃城となった。(現地説明板、『日本城郭体系』参照)

主郭

【歴史】

登城口のゲート


はくさんじょう
武田八幡神社のすぐ前の通りを120m程南下します(神社に向かって左手道路を120m程進む)。小川に突き当たったら右折するとすぐにゲートがあり、ここが登城口です。この手前に車は停め、ゲートを越えて50m程先で左手の橋を渡ります。右手に民家を過ぎ、山の中へ入って200m程進んで左手へ進み(朽ちた案内有)、5m程先の左手山道を登った山頂が城跡で道は整備されています。武田八幡神社に駐車して神社から歩くのも良いでしょう。