城跡の地図
新府城
別名
所在地 山梨県韮崎市中田町中条上野字城山
遺構等 土塁、曲輪、空堀、馬出、三日月堀、碑、説明板
現状 城址公園
築城年 天正9(1581)
築城者 武田勝頼
歴代城主 武田勝頼
形式 平山城
訪城日 2009/3 感想

竪堀

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御名方神社の堀

武田勝頼公霊社

二の丸

【歴史】
【道案内】
2002年からの発掘調査後に整備したようで、再訪したら城跡は見やすくなっていました。馬出しや三日月堀を始め、土塁や空堀が見応えあります。本丸には神社や長篠の合戦で戦死した人達の墓があり、ここから眺める山々の景色がとても美しいです。周囲は桃畑なので、4月に来たら桃源郷でしょう。また、能見城周辺に新府城外郭の堀や土塁も残っています(穴山駅から北東へ約900mの御名方神社や神社から西南西へ約400m付近の竪堀・虎口など)。
鳥瞰図(現地説明板より)

天正3年(1575)、長篠・設楽ヶ原合戦で織田信長・徳川家康連合軍に大敗した武田勝頼は、一門衆の穴山信君(梅雪)の進言で要害な地である七里岩の断崖上に新城を築くことを決め、天正9年、真田昌幸に命じて新府城を築いた。普請を開始して9ヵ月後、まだ城は完成していなかったが勝頼は入城した。その3ヵ月後、織田信長の甲斐侵攻が開始された。更に、穴山梅雪・木曾義昌が寝返り、勝頼の弟・仁科盛信が守る高遠城も落城したため、勝頼は新府城に火をかけ、小山田信茂の岩殿城を目指したが、途中、信茂の離反を知り、勝頼は天目山で嫡男信勝共々自刃して果て、新羅三郎義光以来28代続いた名門、甲斐武田氏は滅亡した。
【感想・メモ】
しんぷじょう
JR中央本線「新府駅」から西へ約750m。JR「穴山駅」から県道17号で2km程南下すると右手に「新府公園」があり、ここが城跡です。公園の少し手前左手(東)に無料駐車場が完備されています。

三日月堀