登城口の地図
長谷高山城
別名 鴻の山城、尼ケ城
所在地 佐用町横坂
遺構等 曲輪、土塁、石垣、空堀、碑、説明板
現状 ふれあいの里(公園)
築城年 建久8年(1197)
築城者 播磨権守山田則景
歴代城主 山田
形式 山城
訪城日 2004/3/26
【道案内】


【感想・メモ】
はせこうやまじょう
【歴史】
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鐘搗堂へ
中国自動車道「佐用インター」を下り、最初の信号を右折します。するとすぐ高速のガードがあります。ガードをくぐってすぐの路地を左に入って、100m程東進した1本目の路地を左へ行くと城跡です。(また高速のガードをくぐります)最初のガードをくぐった所から、道に案内が出ているので迷わないと思います。ただ、2回目のガードの先にフェンスがあるのでびっくり!閉まっていて入れない??と思いながらフェンスに近づいてみたら、動物が入り込まないように設けられたフェンスでした。自分で開け閉めして入ることができ、良かったぁとホッと胸をなでおろしました。フェンスの向こうは「ふれあいの里」になっており、ここに車は停めることができ、トイレも完備されています。この「ふれあいの里」内に城跡があります。
「ふれあいの里」の地図を見て、城跡への道を確認し、イザ出発。登城道は、大きめの石がゴロンゴロンしています。5分程登ると、鐘搗堂へ出ます。ここからの見晴らしはとっても良く、眼下に中国道も見えます。そこから更に10分ほど登ると曲輪が見えます。それ程大きくない曲輪が、段々に7段もあり、なかなか見応えがあります。これらを楽しみながら進むと本丸へ到着!「高山城跡」の説明板が立っています。本丸から北側へ下り始めたら、鎌倉時代位の墓石がありました。更に、北へ行くと曲輪があり3段になって広がっています。千畳敷と呼ばれているとのこと。この千畳敷の下側周囲を歩いてみると、土留め用と思われる石積みがちらほら見えます。特に南側には立派な石垣が〜草もなく、木々の枝にもまだ葉がついていないので、とっても見やすかったです。
建久2年(1191)、村上源氏庶流・山田則景が鎌倉の源頼朝から佐用荘地頭の下文を受け播磨守となり、建久8年、隠居してから太郎入道と号して城を築いたのがこの長谷高山城である。山田則景の末子・山田家範は、この城で生まれ、赤松村に移り住み赤松姓を名乗った。家範から4代目が円心となり、赤松氏発祥の地と言われている。高山城主は、則景、将則、光広の3代で絶えた。別名尼ヶ城は、天正5年(1577)尼子勝久が拠ったことから付いた。
石垣