滝野城 |
別名 | |
所在地 | 加東市(滝野町)光明寺 |
遺構等 | 曲輪、井戸、碑、説明板 |
現状 | 光明寺 |
築城年 | |
築城者 | |
歴代城主 | |
形式 | 山城(Pから比50m) |
訪城日 | 2008/4/27 |
途中、今でも残る光明寺の4つの塔頭寺院を見ながら、一番奥にある光明寺本堂を目指します。本堂の裏手に光明寺合戦本陣跡の石碑や説明板があり、ちょっと寂れていたものの床机が置かれていて雰囲気を再現しているようです。本陣跡から少し下った所には閼伽井の水がありました。帰りは展望台経由にしたら、眺めがよかったです。 |
光明寺合戦本陣跡
たきのじょう |
JR加古川線「滝野駅」から北西へ約1.1km。滝野駅から349号で150m程西進して右折します。400m程進んで右折し、道なりに700m程上がって行くと駐車場があります。ここから歩いて上がった光明寺が城跡です。 |
光明寺は推古帝2年(594)に天竺渡来の法道仙人の開基と伝えられる真言宗の古刹で「播磨高野」とも呼ばれ、戦国期には多くの僧坊、伽藍を擁した城郭寺院だった。貞和4年(1348)吉野焼討ちで南朝を制圧した北朝方は、足利尊氏・直義兄弟の争いが表面化した(観応の擾乱)。中国平定のため書写山に拠った尊氏を討つべく、石塔頼房は5千余騎で光明寺に陣を構え、八幡の直義に援軍を求めた。それを知った尊氏は援軍が来る前に打ち破ろうと、観応2年(1351)2月4日、1万騎を率い光明寺を囲んだ。尊氏は引尾山、高師直は鳴尾山、赤松則祐は八幡山に陣を布き、仁王堂や東坂で激戦が展開されたが、いずれも寄手が敗れた。両軍の対峙は10日に及んだが、城方の後詰が迫ってきたので、寄手は摂津まで軍を引いた。のち、尊氏は直義と和睦し帰京したが、高師直・師泰兄弟は摂津の鷲林寺で処刑された。 |
閼伽井の水