平野環濠
別名
所在地 大阪府大阪市平野区平野宮町2-1-67
遺構等 環濠
現状 杭全神社、宅地
築城年 15世紀後半?
築城者
歴代城主
形式 環濠
訪城日 2011/2/13 感想
神社の東側に環濠の一部が残っています。また神社境内に「平野環濠跡」の石碑が立っています。また、杭全神社の南南東約700mにある平野公園の北西隅には木戸口の一つ、樋ノ尻口門があったとされ、石碑や説明板があります。この道路を挟んだ北側には、安東正次の墓があります。
【感想・メモ】


【歴史】
【道案内】
城跡の地図
平野環濠は七つの町を一郭として築かれ、その規模は堺に次ぐものだった。土居と濠が二重に巡らされ、出入口13箇所に構えられた門は明治12年(1879)まで存続していた。戦国期には三好氏の陣営となったり、織田信長の行軍にさらされたりと幾多の戦乱に見舞われた。天正11年(1583)、豊臣秀吉が蔵入地として平野の豪族末吉勘兵衛に150石の知行を与えたが、慶長年間には高台院領となり、慶長19年(1614)大坂冬の陣では東軍の支配下となり、将軍秀忠の陣所となった。翌年の夏の陣では後藤基次が陣営とし、藤堂隊により大部分を焼亡した。戦後、徳川氏の直轄領となり、末吉安吉を代官として新しい町割の下に復興が計られ、川越藩、高崎藩、古河藩などがその領地とした。古河藩時代には平野環濠内に平野陣屋が置かれた。

参考資料
『日本城郭大系』新人物往来社発行
ひらのかんごう
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JR関西本線「平野駅」から南東へ約350mにある杭全神社とその周囲一帯が環濠跡です。神社に参拝者用駐車場があります。