城跡の地図
高槻城
城跡は公園として改変されたり、宅地になったりして、ほとんど遺構がありません。高校に土塁が残っていますが、どこまで本物なのでしょう?公園内の石垣、水堀は公園整備で造られたもので、公園入口横(北の入口の西側)に小さな城址碑があります。公園内に高山右近の像がありましたが、公園から北へ約400mにある「カトリック高槻教会」にも高山右近の像があります。また、公園から北へ約500mにある「本行寺」の山門は高槻城の移築門で、高麗門の形式です。公園の北にある「市立しろあと歴史館」は入場・駐車場とも無料で、高槻城の当時の様子が分かる模型などがあり楽しめるので、立ち寄ると良いでしょう。
【感想・メモ】

教会の高山右近像

阪急京都線「高槻市駅」から南へ約1km、JR「高槻駅」から南東へ約1.5km。「第一中学校」の南、「槻の木高校」の東にある高槻城跡公園付近一帯が城跡です。公園近くに有料駐車場、「市立しろあと歴史館」利用者の無料駐車場があります。

移築門(本行寺)

別名 久米路山龍ヶ城
所在地 大阪府高槻市城内町
遺構等 土塁、移築門、碑、説明板
現状 高槻城跡公園
築城年 10世紀末
築城者 近藤忠範
歴代城主 近藤、薬師寺、和田、高山
形式 平城
訪城日 2011/2 感想
【道案内】

【歴史】
たかつきじょう
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高校に残る土塁

移築門の地図
高槻城が記録に登場するのは、14世紀前半、入江左近将監晴則が居城としてからである。永禄12年(1569)、和田惟政が城主となったが、元亀4年(1573)、その子惟長と対立した高山飛騨守・右近父子が和田氏を滅ぼして城主となった。キリシタンであった右近は、城内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正9年(1581)には、イタリアの巡察師ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催した。その後、豊臣氏、徳川氏の直轄地となり、大阪夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となった。そして、慶安2年(1649)、永井直清が3万6千石で入城し、明治まで13代・約230年にわたり、永井氏の藩政が続いた。

参考資料
『日本城郭大系』新人物往来社発行
現地説明板