若江城
別名
所在地 大阪府東大阪市若江北町・若江南町
遺構等 碑、説明板
現状 若江公民分館、若江幼稚園、若江小学校
築城年 南北朝後期
築城者 畠山義深
歴代城主 畠山義深、池田教正、遊佐氏
形式 平城
訪城日 2011/2 感想
道路北側の若江公民分館にお城の説明板があり、幼稚園の南に城址碑があります。この付近がお城の中心地だったようです。道路南側の神社にも城址碑があり、神社の西側にある若江小学校も城域だったようです。また、この付近には大阪夏の陣の「若江・八尾の戦い」に関する史跡が幾つかあり、若江岩田駅から南へ約150m(東大阪市岩田町3丁目)に飯島三郎右衛門(弓の名手で、信長・秀吉・秀頼に仕え、大坂夏の陣の若江八尾の戦いでは木村重成隊に属したが、山口重信に槍で突かれ戦死)墓が、他にも木村陣屋、木村重成墓、木村重成像、山口重信墓(木村陣屋のページを参照)などもあるので見て回ると良いでしょう。
【感想・メモ】


【道案内】
城跡の地図
【歴史】
わかえじょう
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近鉄奈良線「若江岩田駅」から南南西へ約1km。若江岩田駅東側から主要道21号で1km程南下した「若江南」信号を右折して、主要道24号に入ります。400m程西進した付近一帯が城跡です。
若江城は、南北朝時代の争乱期(14世紀末)に、幕府の命令により河内国内の武士の統率と取締りのため、河内国守護に任じられた畠山基国が、北朝方の拠点として築いた城郭と考えられ、永徳2年(1382)から天正元年(1573)までの約2世紀間、河内国守護の政庁の役割を果たした。畠山氏は、満家・持国に継がれ、このあと政長と義就の義兄弟の家督争いは応仁の乱へと発展し、やがて支配は細川氏から三好氏へ移り、永禄11年(1568)には畿内を平定した織田信長が三好義継を若江城主に、畠山高政を高屋城主とした。城は石山本願寺攻撃の拠点として使われたが、和議が成立し、城の役割を終え廃城となった。

参考資料
『日本城郭大系』新人物往来社発行
現地説明板より

飯島三郎右衛門墓