山下城 |
登城口から5分も登れば神社がある郭で、そこから2分程で眺望が良い愛宕神社です。ここから段郭を見ながら登ると主郭ですが、あちこちに桜の木を植えていました。主郭には東側に土塁があり、その背後には二重堀切があります。二重堀切は南の方で合流し、竪堀となって落ちています。また、主郭の南西尾根にも段郭がありますが、こちらは藪です。この城山の北にある向山(国道173号「向山トンネルの上)は山下城の出城のようで、土塁や堀があるようですが、こちらは未訪です。 |
能勢電鉄妙見線「山下駅」から北へ約850m。東谷小学校から国道173号(能勢街道)を200m程北上した「甘露寺南」信号を右折し、100m程東進して左折します。300m程北上すると「川西市郷土館」があるので、ここに駐車すると良いでしょう。郷土館から100m程北西が登城口です。周辺は道が狭いので注意してください。 |
築城時期については三説あり、天禄年間(970-973)源満仲の女婿塩川刑部丞仲義が新田城の支城として築城したという説、南北朝時代に塩川伯耆前司仲章が築城したという説、天正7年(1579)4月20日に塩川伯耆守国満(淳直)が織田信長から与えられたとする説である。いずれも史料的な決め手を欠き詳細不明。多田御家人の頭領格であった塩川氏は国満の時、最盛期を迎えた。永禄11年(1568)、信長が摂津を制圧した際、国満は信長に臣従し、旧領安堵と同時に山下城を本城とすることが認められた。現在確認できる山下城は、国満がこの時により堅固な城へ改修したものと考えられる。天正12〜14年、塩川・能勢両氏が対戦したが、戦闘中に国満が能勢地黄城へ不意打ちしたことが秀吉の勘気に触れ、天正14年12月に国満は切腹し、山下城は廃城となった。 参考資料 『日本城郭大系』新人物往来社発行 『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』兵庫県教育委員会発行 『ひょうごの城紀行 下』(朽木史郎・橘川真一 編著)神戸新聞総合出版センター発行 |
本丸背後の二重堀切
登城口
本丸の土塁
別名 | 龍尾城、一庫城 | ||
所在地 | 兵庫県川西市山下 | ||
遺構等 | 曲輪、土塁、竪堀、堀切 | ||
現状 | 山林(城山) | ||
築城年 | 天禄年間(970-973)/南北朝時代/天正7年(1579) | ||
築城者 | 塩川仲義/塩川仲章/塩川国満 | ||
歴代城主 | 塩川氏 | ||
形式 | 山城(比90m、標184m) 登城口から主郭まで約9分 |
||
訪城日 | 2011/2 | 感想 | ○ |
やましたじょう |