城跡の地図
此隅城
別名 子盗城、此隅山城
所在地 豊岡市出石町宮内
遺構等 曲輪、掘割
現状 山林
築城年 応安5(文中元、1372)
築城者 山名時義
歴代城主 山名
形式 山城(比130m)
訪城日 2004/7/29
【道案内】

【感想・メモ】
このすみじょう
【歴史】
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遠景
縄張図(現地説明板より)
出石の城下町から県道706号を北上すると出石神社があります。この神社の北方に見える山が此隅山で、神社北側の道沿いに縄張図付きの説明板があります。登山口は、出石神社の東側の通りを北上すると道路沿いに案内が出ているので左手へ行きます。すると獣よけの扉があり、そこから登ります。案内付近に駐車可能で、登城道は整備されています。
登山口に獣よけの扉がありました。登山道は階段で、途中、途中、曲輪を見ながら登りました。山頂の本丸には碑が立っており、眺望も良くて気持ちいいのですが、下草が覆い茂っています。堀切を隔てて本丸北側にも曲輪があり、階段で簡単に行き来できます。そこからの眺めを堪能しながら、山名氏の本城だった割にはこれだけ?と疑問に思い、山の下の方をよく見ると、曲輪があちこちにあって意外と広いのが分かります。すごく楽しそうと思い本当は行きたかったのですが、登山道をそれるとスゴイ薮の所が多く、蛇が怖かったので諦めました。
応安5年(文中元、1372)、山名時義が此隅山に築城した。山名氏は、当時強大な権力を誇っていたため、明徳2年(1391)次の時熈の時、惣家と分家が二分する内乱、「明徳の乱」が勃発し、 山名家は一旦衰退した。しかし、時熈の子・持豊(宗全)の時、再び勢力は復興し、「応仁・文明の大乱」で西軍の総帥として細川勝元と戦う際、持豊は此隅山城に全兵力を集結してから出陣した。その後、此隅城主は政豊、致豊、誠豊、祐豊と続き、永禄12年(1569)祐豊城主の時、羽柴秀吉軍の攻撃で此隅城は落城した。
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