太田城 |
JR・南海「和歌山駅」から東へ約350m。国道24号で阪和自動車道のガードを南へくぐり、300m程進んだ「花山」信号を直進して県道145号に入ります。1.2km程西進した信号を右折し、2本目の信号を左折した左手の「来迎寺」一帯が城跡です。 |
お寺の前に説明板が、境内に城址碑があり、お寺の北東には小山塚があります。また、ここから北東へ約700mに秀吉軍が水攻めの際に築いた堤跡が残っています。太田小学校の北約150mの「きのくに信用金庫」から東へ道路沿いに土塁がありますが、私有地で囲まれているため中に入れず、土塁がある前の通りはやたら交通量も多くて、あちこちから見たかったけど横断するのも一苦労って感じでした。また、JR和歌山駅の南側を東西に走っている県道145号を線路から650m程西進した「橋向丁」信号のすぐ北西にある「大立寺」に城門が移築されています(住所:和歌山市橋向丁11)。 |
別名 | 易井屋敷 | ||
所在地 | 和歌山県和歌山市太田2丁目3−7 | ||
遺構等 | 移築門、築堤跡、碑、説明板 | ||
現状 | 来迎寺 | ||
築城年 | 延徳年間(1489-92)、天正4(1576) | ||
築城者 | 紀俊連、太田源太夫 | ||
歴代城主 | 太田 | ||
形式 | 平城 | ||
訪城日 | 2012/1 | 感想 | ○ |
おおたじょう |
延徳年間(1489〜92)、国造である紀俊連が築城し、天正4年(1576)太田源太夫が修築した。天正13年(1585)、豊臣秀吉が6万の大軍で紀伊に侵攻した。根来寺・雑賀衆と共に太田左近宗正の太田党も篭城したため、秀吉は根来寺を焼き払い、太田城を包囲した。水攻めで、1ヶ月後に城兵に疲れが出始めたため、太田一族は自刃して開城した。 |