応永年間(1394-1428)簗田満助が築城したとの説と、長禄元年(1457)簗田成助が築城したとの説があるが詳細不明。長禄3年以降は古河城、栗橋城と共に鎌倉公方(後の古河公方)足利成氏方の戦線の一翼を担っていた。永正3年(1506)以降、古河公方足利政氏は子の高基と対立し、永正7年、高基は簗田高助の支援を受け関宿城に移座した。永禄元年(1558)、北条氏康により、簗田晴助は関宿城を足利義氏の御座所として進上した代わりに古河城を与えられた。永禄4年、上杉謙信が関東に進軍してきたため、義氏は古河に戻り、関宿城には再び簗田氏が入った。簗田氏は反北条氏として3回もの関宿合戦を繰り広げたが、天正2年(1574)、関宿城は北条氏によって落城し、簗田氏は水海城へ退去した。以後、関宿城は北条氏の直轄支配となったが、豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏滅亡と共に関宿城も落城した。天正18年(1590)徳川家康の関東入封に伴い、家康の実弟・松平康元が関宿城に2万石で入城した。以後、城主は松平、小笠原、北条、牧野、板倉、久世、牧野と交代し、宝永2年(1705)久世重之以後、明治に至るまで関宿は代々久世氏が治めた。(現地説明板、『日本城郭大系』新人物往来社発行、『図説房総の城郭』千葉城郭研究会編 参照) |