福原城
別名 要害城、竜臥城、下山城
所在地 栃木県大田原市福原字下山
遺構等 曲輪、土塁、横堀、竪堀、堀切
現状 山林
築城年
築城者 那須氏
歴代城主 那須氏
形式 山城(比60m)
登城口から二郭まで約5分
訪城日 2009/12 感想
5分も登れば立派な切岸が見え、藪ながらも2郭には土塁があり、北東側以外には横堀が巡っています。この南東が主郭ですが、藪がかなり酷く、主郭南側の高い土塁上を歩くのがやっと。この土塁上から南側の横堀を見下ろすと、高低差に驚きます。ここから南へ進むと横堀が三重になっていて圧巻です。
【感想・メモ】

城跡の地図

主郭周囲の横堀

【歴史】

福原城は、那須資隆が築いたという説や、那須資隆の四男久隆が築いた説など諸説ある。応永21年(1414)那須資氏の子資之と弟資重(沢村城主)が不和となり、資重が敗れると、応永24年(1417)福原北岡館(福原橋近くの段丘上・字城の内に築かれた城)に拠った資之は上那須氏を称し、資重は下境に移って稲積城を修復して居住したが、後に烏山城を築いて移り下那須氏を称した。永正13年(1516)、上那須氏の家督争いがきっかけで上那須氏は断絶し、下那須氏の資房が上下に分裂した那須氏を統一した。江戸初期に那須七騎の一家那須資春の子資景が城を修復して居住し、領地の加増や資晴の所領を合わせ1万4千石の大名となり、福原を本拠に那須藩を興した。福原城主は資景の子資重と続いたが、資重に子が無く、下館城主増山弾正正利の弟権之助が城主となり、那須資祇と名乗った。元和元年(1681)資祇は8千石を加増され、2万石として烏山城に移り、福原城は廃城となった。(『とちぎの古城を歩く』塙静夫著 下野新聞社発行 参照)
【道案内】
箒川を県道167号「福原橋」で南へ渡り、更に500m程南下して左折し、県道285号に入ります。600m程東進した右手の小山が城跡で、右手山際に「不審者に注意 福原小PTA」という看板があります。この付近から山に入ると竹林の向こうに道があります。
ふくわらじょう
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