板橋城 |
別名 | |||
所在地 | 栃木県日光市(今市市)板橋 | ||
遺構等 | 曲輪、石垣、堀切 | ||
現状 | 山林(城山) | ||
築城年 | 永正年間(1504-20) | ||
築城者 | 遊城坊綱清(宇都宮氏一族) | ||
歴代城主 | 遊城坊、板橋氏、松平氏 | ||
形式 | 山城(比150m)、館 登城口から主郭まで約25分(標高443.3m) |
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訪城日 | 2010/3 | 感想 | ○ |
永正年間(1504-20)、遊城坊綱清が築城した。遊城坊は代々宇都宮氏一族が出家して住職となり、板橋郷・栗山郷等を社領とした。天文年間(1532-55)、鹿沼城主で日光山惣政所職にあった壬生綱房は、遊城坊綱清らが宇都宮氏に加担して一族を集めているのに不安を感じ、小田原北条氏に加勢を求めた。北条氏家臣・豊島郡東山の城主板橋将監親棟は壬生氏応援のため派遣され、板橋城を攻撃し綱清を滅ぼして城主となった。壬生嫡流は日光山、更に北条氏と結んで宇都宮氏と対抗し、板橋城は日光山側の重要な拠点として山城と館が整備された。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、板橋氏は小田原に出陣したが敗北した。板橋氏滅亡後、日光山領は秀吉に没収され結城秀康領となったが、慶長5年(1600)秀康は越前へ転封となり、松平一成が入って板橋藩1万石が成立したが、東照宮建造に伴い、この付近一帯が御神領となったため廃城となった。(現地説明板、『日本城郭大系』新人物往来社発行 『とちぎの古城を歩く』塙静夫著 参照) |
JR日光線「下野大沢駅」から南南西へ約1.8km。国道121号「板橋」信号から200m程東進してJRを陸橋で越え、更に300m程進んだ右手に登城口があります(案内有)。登城口手前の道路左手に駐車場があります。 |
登城道はハイキングコースになっています。15分弱程登ると神社が祀られた曲輪に着き、そこから10分弱で主郭で、主郭手前に堀切があります。主郭下に石垣の案内があったので行ってみたのですが、石垣なのか岩が砕けたのか?といった感じでした。山頂からの眺望がとても良く、城跡も整備されていてとても気持ち良いお城です。また、登城口から道路を隔てた東側には城主の墓が、JR沿いには館跡があります。 |
城主の墓
主郭手前の堀切
いたばしじょう |