高館城
別名 西明寺城
所在地 栃木県益子町益子字高館
遺構等 曲輪、土塁、堀切、池、説明板
現状 高館山(森林公園、キャンプ場)
築城年 康平年間(1058-65)
築城者 紀権守正隆
歴代城主 益子氏
形式 山城、標高301.8m
駐車場から主郭まで約5分
訪城日 2009/11 感想

主郭


【道案内】
城跡の地図
真岡鉄道「益子駅」から東南東へ約3.2km。益子駅から県道41号で900m程東進した「益子」信号を直進し、更に300m程東進した次の信号を右折して県道262号に入ります。道なりに3.5km程進んだ上がり切った付近左手に駐車場があり、既に城内となります。
康平年間(1058-65)征東大将軍紀古佐美の子孫・紀権守正隆が高館山の麓に築城して益子氏を称し、正隆以降、城を山上へ移したといわれるが定かでない。南北朝動乱時代には、南朝の関東六城最北端の拠城として重要視された。鎌倉時代から南北朝時代にかけ益子氏は芳賀氏と共に宇都宮氏の有力な家臣として活躍したが、天正17年(1589)3月、宮内少輔家宗の時、益子氏は主家宇都宮氏に背き宇都宮国綱、芳賀高継、玉壬高宗等と戦い滅亡したとの説と、同年、益子氏が北条氏に内通し、笠間氏・芳賀氏の領地を侵したという罪により、宇都宮22代城主国綱が芳賀高定・多功綱継・笠間綱家・塩谷由綱らとはかり益子勝宗の所領600町を没収したとの説がある。(現地説明板、『とちぎの古城を歩く』塙静夫著 下野新聞社発行 参照)
【歴史】

【感想・メモ】
たかだてじょう
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駐車場に説明板があり、この背後に池があります。ここから郭を経由して5分も上がれば主郭です。主郭の北側にも何段かの郭があり、土塁を持っている郭もあるものの、藪でイマイチ見難かったです。北側の尾根は途中から更に西の尾根にも分かれていて、いずれも先端には堀切があります。また駐車場の西側も城域で、キャンプ場になっていますが、ここからの眺望が良いです。