城跡の地図
牛岐城
別名 富岡城、浮亀城
所在地 徳島県阿南市富岡町殿町
遺構等 碑、説明板
現状 牛岐城址公園、東京大学地動観測所、産業展示館
築城年 観応2年(正平6,1351)
築城者 安宅氏、新開氏
歴代城主 安宅、新開、長宗我部、蜂須賀
形式 平城
訪城日 2004/5/3
【道案内】


【感想・メモ】
うしきじょう
【歴史】
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牟岐線「阿南駅」から北西へ約500m。阿南市役所から南西へ約150m。国道55号「富岡町玉塚」信号を北へと県道23号へ入ります。城跡へは、この通りから次の信号「富岡町」の間にある左(西)に入る路地へ行くか、「富岡町」の信号を左に入ると、左手に、牛岐城址への道という幅の狭い階段があるので、それを登って行きます。私は後者から登り、前者の方へ下りましたが、どちらにしても路地の中へ入ると駐車は難しいので、車は少し離れた場所に置くと良いでしょう。「徳島地方法務局阿南」の裏手の方からだと遊具のある公園側から登れます。
城跡は現在、東京大学地動観測所&産業展示館になっています。道や住宅によって城跡が2つに分断されたようですが、上から片割れの城跡の山が見えます。あっちには社が建っていました。また、城跡碑も本丸だった頂上にありますが、何とも可愛らしいカマキリ形の遊具もあります。下にも蜘蛛やバッタ形の遊具がある公園があり、ここにお城の説明があります。ただ、邪魔なものがあって真っ直ぐ前から写真が撮れない。諦めて斜めから撮ったら、帰り際に広い通りへ出る手前にも同じ説明板があるのを見つけ、こっちの説明板を真っ直ぐ前から撮りました。
富岡の地は、鎌倉〜南北朝時代にかけて牛牧の庄といわれ、高野山、仁和寺の荘園であった。観応2年(正平6,1351)紀州の豪族で熊野水軍の首領であった安宅頼藤が築城し、地頭として支配したが、南朝没落と共に衰退し紀州へ帰った。その後、阿波守護・細川氏の武将新開氏が城主となったが、土佐の長宗我部元親が阿波に攻め入り、天正10年(1582)城主・新開遠江守実綱(道善)を丈六寺で殺害し、落城した。同年、元親の弟・親康が入城したが、豊臣秀吉の侵攻により土佐に退いた。天正13年(1585)蜂須賀氏が阿波に入り、家臣・細山帯刀を南方の押さえとして城に置き、阿波9城の1つとして整備させた。帯刀は後に賀島姓を称し、明治まで続いた。城は、一国一城令により寛永15年(1638)居宅部分を除いて取り壊され、石垣の一部が桑野川の一ノ堰建築に使われた。