赤館
別名
所在地 棚倉町棚倉字城跡
遺構等 曲輪、土塁、空堀、碑、説明板
現状 赤館公園
築城年
築城者
歴代城主 赤館、上遠野、結城、立花
形式 台城(比50m)
訪城日 2006/5/1
【道案内】


【感想・メモ】
あかだて
【歴史】
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国道289号で白河から棚倉町に入った場合、「逆川」信号を右折して国道289号をキープします。1.5km程南下すると、道路左手に「赤館公園」・道路右手に「赤館旅館」の看板があります。この看板がある所を右折します。あとは道なりに坂を上がっていくと山頂まで車で上がれ、山頂は公園になっています。ここが館跡です。
山頂が主郭で公園となっていますが、あまり遺構が見られません。縄張図付きの説明板を見ると、車で上がってきた道路の脇等に遺構があるようなので、道路を歩いてみたら竪掘がよく分かりました。
鎌倉初期この赤館は伊達氏が得た飛び地であったが、南北朝以降白川結城氏の直轄領地となった。永正10年(1510)佐竹氏は白川結城氏の依上保を支配し、やがて東館・羽黒館(塙)・流館(近津)等と赤館以南の九南郷館を支配した。元亀2年(1571)白川義親は南郷の領土奪回にでて南郷一帯で激戦となった。これを好機と小田原北条氏が佐竹家臣の下妻城を攻めたので、佐竹は赤館を放棄する和睦を結び、南転した。天正3年(1575)佐竹は前年に続き赤館を攻めたが、蘆品・結城連合軍が撃退する。天正18年、伊達政宗は分国を挟むことなくこの赤館で佐竹氏と対峙したが、同年秀吉の「奥州仕置」で白川結城氏は消滅し、棚倉は佐竹領地と公認された。徳川の天下になると、佐竹は秋田に追われ棚倉は天領となった。慶長14年(1609)立花宗茂が5万石赤館城主となり、元和8年(1622)丹波長重が5万石赤館城主となり、現在の地に平地城を築城しはじめ、以降の赤館は廃棄されたが、長重は白河10万石に転封となった。寛永4年(1627)内藤信照が5万石棚倉城主となると築城と同時に、城下町特有の町形につくり、検断や名主を置き経済の中心地とした。(現地説明板より)
城跡の地図