名生城
【道案内】
城跡の地図
JR陸羽東線「東大崎駅」から北へ約500m。東大崎駅の2本北側の踏切西側に名生館官衙遺跡の標柱と案内があり、そこから約270m先の案内に従い右折すると主郭跡です。
【歴史】
観応2年(正平6、1351)、大崎家兼が築城したといわれる。大崎氏は足利氏の支流で、鎌倉中期に奥州へ下向し、斯波郡に居住して斯波氏を称した。斯波氏四代高経の弟家兼は奥州探題として伊達郡霊山、志田郡師山、更にこの伏見(名生城)へ移り、大崎氏の祖となった。以後、大崎氏は伏見を拠点として奥州探題として広く東北地方を支配したが、13代義隆の時、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣滅せず、領地を没収され滅亡した。天正19年、大崎葛西一揆が勃発し、名生城が拠点となったが、蒲生氏郷によって落とされ、一時、伊達政宗の叛意を警戒した氏郷が立て籠もったが、一揆の鎮圧によって廃城となった。また、古代7世紀末から10世紀にかけては大崎地方西部を治めていた役所が築かれており、陸奥国府である多賀城より古い時期から大崎地方には律令支配が及んでいたことを示している。

参考資料
『日本城郭大系』新人物往来社発行
現地説明板
【感想・メモ】
城跡は、古代には役所跡として使われていたため、主郭跡には名生館官衙遺跡の説明板があります。また、先程の通りを更に130m程西進した右手にはお城の説明板もあります。遺構は明瞭ではないですが、先程の通り沿いの田んぼなど一段低い所が堀跡です。踏切の約100m東を流れる川が東端だったようで、踏切東方の大崎神社も城内です。説明板の地図と照合すると随分と広かったことが分かります。
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別名 御所館、義隆館
所在地 宮城県大崎市古川大崎城内
遺構等 曲輪、土塁跡、堀跡、説明板
現状 名生館官衙遺跡、宅地、畑
築城年 観応2年(正平6、1351)
築城者 大崎家兼
歴代城主 大崎氏
形式 平城
訪城日 2012/1 感想
みょうじょう