宮城県のお城 つるまるじょう
鶴丸城
別名 鶴丸館、岩ケ崎城
所在地 宮城県栗原市栗駒岩ケ崎裏山
遺構等 曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀、碑、説明板
現状 館山公園
築城年 南北朝時代
築城者 富沢日向道祐
歴代城主 富沢、伊達、石母田、田村、古内、茂庭、中村
形式 山城(比70m、標100m)
登城時間
畝状竪堀
訪城日 2012/7 感想
【道案内】 城跡の地図
岩ケ崎小学校背後の小山が城跡で、小学校の西約100mに山へ向かう道があります(館山公園案内有)。400m程北上した二又を右折し、その先で鋭角に右折して上り切ると駐車場が完備されています。
【感想・メモ】
駐車場のすぐ上が主郭でかなり広く、中央に城址碑があります。主郭北東に東へと細長い突き出しがあり面白いです。主郭南東の階段を下りた先に堀切があり、更に下って車道に出て、そのまま南東へ下っていくと右手に畝状竪堀が見えてきます。夏でも明瞭に見られ圧巻です。この南東の郭には東屋があり、その東の細長い郭の先に堀切があります。東屋のある郭の南東は遊具のある蛭子公園でここも郭です。城域は広く、他にも郭があるものの、藪が酷くて入らなかった所も多かったですが、夏でも楽しめました。今度は夏以外に訪れてきちんと見たいです。また、すぐ南西にある黒岩館が主郭から望めます。
【歴史】
南北朝時代の岩切城合戦の戦功により、葛西氏の出身である富沢氏が吉良氏から三迫富沢郷を賜り、この地に築城して移り住み、代々日向守を名乗った。富沢氏は葛西氏に背いて大崎氏に仕えたり、伊達氏に通じたりした。五代直景の時、豊臣秀吉の小田原征伐の不参のため、天正18年(1590)主家葛西氏と共に滅んだ。その後、伊達政宗の五男宗綱、六男宗信の居館となり、茂庭周防の補佐によって5万石の城下町を築こうとしたが、いずれも夭逝して成らず、その後、石母田、田村、古内、茂庭、中村と移封された。
参考資料 主郭南東の堀切
『日本城郭大系』新人物往来社発行
現地説明板

主郭北東の細長い突出
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