嘉吉3年(1443)、津軽十三湊城主・安東太郎盛季が南部氏との戦いに敗れ、蝦夷地に入って築いた館で、南の大館と北の小館から成っている。大館は、西は茂辺地川岸に綿糸、南と北は自然の沢で切られ、東は空堀を巡らしている。小館は、西は茂辺地川左岸の崖地で、他の三方は自然の沢を利用し、更に土塁を設けている。盛季の弟・庶季は西の関(西津軽)及び秋田に勢力を誇っていたが、その孫・堯季は下ノ国を茂別館に居館する弟下国茂別式部大輔家政に、松前大館は同族下国安東山城守定季に、上ノ国は蠣崎武田若狭守信広に任せ、自らは秋田檜山で領主の地位にあった。長禄元年(1457)、東部の酋長コシャマインを盟主と仰ぐ蝦夷の大軍は道南に点在する和人の十二館を一斉に攻撃した。この乱で十館が陥落し、残った和人は茂別・花沢の二館に集まったが、花沢館主武田信広の武略によって乱は平定した。永正9年(1512)大乱が発生し、志苔・与倉前・宇須岸の各館が落ち、翌永正10年には大館も攻略された。大館が蝦夷地一の城塞で、重要な拠点と悟った蠣崎氏は永正11年、松前大館に移り、檜山安東氏の代官の地位を獲得した。茂別館の下国氏は次第に勢力を失い、永禄5年(1562)蝦夷の攻撃に敗れ、松前に移った。後に一族は松前氏(蠣崎氏)に臣従し、藩門閥として重用された。(『日本城郭大系 1』参照) |