【道案内】 |
城跡の地図 |
|
|
JR唐津線「唐津駅」から北東へ約1.3km。国道202号で唐津湾沿いを西進した場合、「虹の松原」を通り過ぎた「東唐津」信号で右折して県道279号に入ります。そこから500m程行って「新舞鶴橋」を渡り、渡り終って150m程行って右折すると正面が城跡です。橋を渡り終って右手が城跡ですが、左手に市営駐車場(有料)があります。 |
【感想・メモ】 |
唐津城は海にせり出すようにあり、橋から見ると海に浮かんでいるようです。城跡の東側を北へ歩きながら海側の石垣を見て、100円払って斜めに上がるエレベータで本丸へ行きました。本丸からの眺めは良く、日本三大松原の1つ虹の松原も良く見えます(他は、三保の松原、天橋立)。本丸から門や石段を通り、石垣を見ながら下りて行きました。その後、三の丸辰巳櫓や時の太鼓の櫓、堀も堪能しました。 |
【歴史】 |
文禄4年(1595)、豊臣秀吉が側近の寺沢広高を唐津に封じ、朝鮮出兵の本拠地・名護屋城の後詰の城として急遽築いた。慶長5年(1600)関ヶ原合戦の戦功により、寺沢広高は12万3千石を領し、慶長7年(1602)から7年の歳月をかけて唐津城を築城した。天草も支配していた寺沢氏2代堅高は、寛永14年(1637)の天草島原の乱の責任を問われ天草富岡城4万石を没収され、正保4年(1647)自殺したため、寺沢氏は2代で断絶し、幕府の直轄地となった。慶安2年(1649)播磨明石より大久保忠職が8万3千石で入封した。その後、大久保氏2代、松平氏3代、土井氏4代続いて、宝暦12年(1762)三河岡崎より水野忠任が6万石で入封した。文化14年(1817)水野氏4代・忠邦が遠江浜松に転封となると、替わって陸奥棚倉から小笠原長昌が6万石で入り、以後、小笠原氏が5代続いて明治を迎えた。 |
|
|
|
|
|
|