富田松山城
登城口の地図
城跡の地図
【道案内】

登城口までJR赤穂線「備前方上駅」から南へ約800m。備前市役所の南東にある「品川白煉瓦岡山工場」の南東を川沿いに80m程東進して右折し、川を渡って道なりに500m程東進した(道が狭いので要注意)右手が登城口で、50m程通り越すと「品川白煉瓦グランド」駐車場があり、お城の説明板があります。
【歴史】
文明年間(1469-87)、三石城を本拠とした備前守護代浦上氏が備中の雄・松田氏に対し西の固めとしてこの城を築いたと思われる。享禄4年(1531)、備前国東半を領有し戦国大名に成長した浦上村宗が死ぬと、当主政宗は播磨国室津城に、次男宗景は備前国天神山城に、三男国秀は富田松山城に居城を構えた。国秀は城を改修したが、政宗は三石城を攻略し、ついで富田松山城を攻め国秀を降伏させた。政宗はこの城に城番を置いたが、宗景の備前国支配が確立すると富田松山城は宗景直轄の出城となり、国秀が城主となった。天文年間(1532-55)は国秀が城主だったが、永禄12年(1569)宗景の家臣・浦上景行が城主となった。天正5年(1577)備前国を平定した宇喜多直家は宗景の天神山城を落城させ、景行が守る富田松山城も攻め落とし廃城とした。
(『日本城郭大系』新人物往来社発行、現地説明板 参照)
別名
所在地 岡山県備前市東片上
遺構等 曲輪、土塁、堀切、石垣、井戸、碑、説明板
現状 山林
築城年 文明年間(1469-87)?
築城者 浦上氏
歴代城主 浦上氏
形式 山城(比180m、標209m)
登城口から本丸まで約30分
訪城日 2010/5 感想
登り始めに墓地を通り、道が直進と右折とありますが、ここは右へ行きます。登城道は整備され、10分程で鉄塔を過ぎ、更に12〜13分で東出丸に着きます。ここから本丸や片上湾が見えます。東出丸から堀切を経て5分程で三の丸に至り、その上が本丸です。本丸には土塁が巡り、虎口もしっかりしています。すぐ西の二の丸には石が沢山落ちており、更に西へ下りた大手曲輪には石垣もあります。この下の大手腰曲輪や井戸などを見て、本丸下の北側を通って三の丸へ、更に東出丸へ戻り、今度は雨乞い跡地へ。ここからそのまま下山したら登り始めの墓地で直進する道になるのですが、この道は沢沿いで足場が悪く歩きにくかったです。城内は整備されて見やすく、眺望も良く、とても気持ちのよいお城です。
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【感想・メモ】

雨乞い跡地

大手曲輪の石垣

本丸

とだまつやまじょう