15世紀頃、和人・渡党と称される本州系の人々が、北海道南部への進出の拠点として築いた道南12館といわれている館の一つ。この頃、渡島半島は津軽の安東氏が「下之国」(上磯〜函館市付近)、「松前」(松前町を中心とした地域)、「上之国」(上ノ国町を中心とした地域)に守護を置いて支配した。下之国守護は茂別館、松前守護は大館、上之国守護は花沢館に居て、それぞれの地域を治めていた。本道最古の記録である『新羅之記録』には、長禄元年(1457)のコシャマインの戦いで道南12館のうち10館が陥落し、残った茂別館と花沢館に和人が集結した。その際、館主蛎崎季繁や客将の武田信広がこの館を堅く守り、この功で蠣崎氏は松前大館、茂別館主と並んで蝦夷地の三代館主の一人に昇格した。蛎崎季繁は子がなく、領主秋田の安東政季の娘を幼女とし、それに信広を配して婿としたため、信広は蠣崎姓を名乗り洲崎に館を構えた。季繁没後、信広は二つの館主として勢力を拡張し、信広死後の2代光広は永正10年(1513)蝦夷と協力して大館を攻略し、松前に移った。その後、光広は勝山に館を築き城代を配置し、花沢館を廃館とした。(現地説明板、『日本城郭大系 1』参照) |