疋壇城 |
別名 | 疋田城 |
所在地 | 福井県敦賀市疋田 |
遺構等 | 曲輪、土塁、横堀、石垣、碑、説明板 |
現状 | 畑、ゲートボール場 |
築城年 | 文明年間(1469-87) |
築城者 | 疋田久保 |
歴代城主 | 疋田 |
形式 | 丘城 |
訪城日 | 2005/9/24 |
ひきたじょう |
石垣 |
国道8号で敦賀市街方面から南下します。「疋田検問所」信号で右折し、70m程行った突き当りを左折します。この道は旧街道で120m程南下した「愛発公民館」付近から右に入る道があるので、その道へ入りまっすぐ行くと城跡です。反対方面から来た場合、国道161号でJR「新疋田駅」方面から北上し、JRを横切ってすぐの路地を左に入り、少し行くとまた左に入る道があるのでそちらへ行くと、道なりに200m程進んだ左手が城跡です。城跡内のゲートボール場に駐車できます。 |
上記のように来ると、車でゲートボール場まで上がれますが、古い街道沿いから階段を上っていくと石垣が見られます。街道沿いに城跡の案内が出ています。主郭前には碑と説明板がありました。主郭は一段高く、畑になっていましたが、猪避け?のためか、電線で中に入れないようにしてありました。ゲートボール場の奥には電車が走っており、どうも鉄道で城域は分断されたようです。鉄道側から見ると、堀もよく分かります。 |
文明年間(1469-87)、疋田久保が築城した。この地は古くは愛発関が置かれ、主要江州路が集まる交通軍事上の要衝であったため、越前朝倉氏の最南端の防衛拠点として築かれた。その後、7代にわたって疋田氏が居城とした。元亀元年(1570)、織田信長による越前侵攻の際、金ヶ崎城と共に破壊されたが、この時は浅井の謀反により信長が撤退したため、再び朝倉勢が入って修復した。しかし、天正元年(1573)信長による朝倉義景追撃戦で完全に破却された。 |