シクノ谷峯構付城
別名
所在地 兵庫県三木市福井
遺構等 曲輪、土塁
現状
築城年 天正6〜8年(1578-80)
築城者 羽柴秀吉
歴代城主
形式 丘城(陣城)
訪城日 2010/11 感想

かなりな藪を突っ切ると付城がありました。主郭は土塁で囲まれ北東と北西側に虎口があり、この北側に腰郭がありますが、藪が酷いです。「宿の谷」と呼ばれる谷に張り出す尾根先端に築かれていることから「シクノ谷」と呼ばれるようになったようです。
【感想・メモ】
【道案内】
【歴史】
城跡の地図
神戸電鉄粟生線「三木駅」から南へ約2km。「道の駅みき」から国道175号の1本西側の通りを700m程南東へ進んだ右手丘陵上が城跡です。ここからリボンを目印に丘へ入っていけるようですが、私は国道175「福井ランプ」信号から600m程西進した「大山」信号を右折し、300m程北上した右手の個人宅前の道を林手前まで東進して右折、田んぼと林の際を50m程歩いて左折、更に40m程東進して田んぼの奥の林の中に入りました。
天下統一を目指した織田信長は、中国地方の戦国大名毛利氏を攻めるため、羽柴秀吉を総大将とした軍勢を播磨に侵攻させた。東播磨を領有する三木城主別所長治は織田方から毛利方へ寝返ったため、天正6年(1578)別所氏の守る三木城を包囲した(三木合戦)。戦いは天正8年1月まで約1年8ヶ月に及ぶ兵糧攻めで、「三木の干殺し」と呼ばれ、長治は籠城して飢えに苦しむ人々の命を救うため自害し開城した。この三木城攻略にて、秀吉は三木方の兵糧搬入と援軍を阻止するため三木城を包囲する付城を30余り築いたが、シクノ谷峯構付城はその付城の1つである。
この付城の東約600mに明石道峯構付城、北西約900mに高木大塚城、北西約1.7kmに法界寺山ノ上付城があります。

現地説明板参照

しくのだにみねがまえつけじろ
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