中道子山城
別名 城山、中道子城
所在地 兵庫県加古川市志方町廣尾
遺構等 曲輪、土塁、堀切、門跡、虎口、井戸、碑、説明板
現状 山林
築城年 室町初期
築城者 孝橋繁広
歴代城主 孝橋氏
形式 山城(比220m)、標272m
登城口から本丸まで約30分
訪城日 2010/11 感想
【歴史】
室町初期、孝橋繁広(赤松則祐の孫満政の三男・満直で、孝橋則繁の養子)が築城したと思われる。嘉吉の乱(嘉吉元年、1441)で赤松惣領家は断絶し山名氏が播磨守護となるが、長禄2年(1458)赤松政則が赤松家を再興し、繁広の子繁景が中道子山城に復帰した。明応5年(1496)繁景が没し政頼が継いだが、この頃山名氏との抗争で活躍していた赤松家重臣で備前国守護代の浦上氏が赤松守護家に敵対した。享禄4年(1531)政頼の子秀光の時、播磨国人衆が浦上氏を倒したが、天文7年(1538)尼子詮久が播磨に侵入し、孝橋秀光は英賀城で尼子軍を迎撃するも敗れ、中道子山城へ退いた。尼子氏は2年で撤退したが、天文18年、秀光は摂津で勢力を伸張してきた三好長慶と戦い戦死した。跡を継いだ秀光の子秀時は浅瀬山城に退去し、中道子山城には城代を置いた。天正年間(1573-92)羽柴秀吉の攻撃で中道子山城は落城したと伝えられる。
参考資料
『ひょうごの城紀行下』(朽木史郎・橘川真一編著)神戸新聞総合出版センター発行
『日本城郭大系』新人物往来社発行
『都道府県別日本の中世城館調査報告書集成15』東洋書林発行

太子堂

二の丸

0

100m

50

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登城口から舗装された車道を歩き、約12分で旧道との分岐で、そのまま車道を歩いたら5分程で車道終点となり駐車場もありました。本丸へは更に12分程登ります。途中、石積みがある大手門や櫓門、城門を通り、太子堂を経て説明板を横目に石が入った立派な虎口を進むと米倉です。土塁がしっかり取り巻き、かなり見応えがあります。この北が本丸で、低い土塁が巡り、眺望も良いです。太子堂南の二の丸は藪で、二の丸東方の城門を出るとロープの外方面に井戸の案内があり、それに従い左手へ下るとトタンに覆われた井戸が見られ、今も水が溜まっています。二の丸の北にも井戸がある曲輪があり、二の丸から北西へ進むと三の丸で石仏が沢山ありますが、結構藪です。三の丸から北西へ曲輪が2つ続き、最下段から東側の虎口を出て進むと石積みがある搦手門があります。更に下ると堀切が2本見られます。帰りは、大手門から旧登山道で下山したら、道は整備されて歩きやすく、車道より距離も短かかったので、登る時も旧登山道を進むことをオススメします。車道と合流する直前に毘沙門岩があります。車道を車で通らせてくれない以外は、大満足なお城です。

搦手門

米倉

城は権現湖の西にある城山。山陽自動車道「加古川北インター」から県道43号で1.5km程南下した「志方東小学校東」信号を左折し(ここから道路に案内有)、700m程道なりに南東へ進んで左折、800m程北上した左手に大蔵神社、右手に駐車場があり、ここが登城口です。
【感想・メモ】

三の丸北の堀切

城跡の地図
登城口の地図
【道案内】

本丸

ちゅうどうしさんじょう