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別名 |
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所在地 |
大阪府能勢町野間中 |
遺構等 |
曲輪、土塁、堀切、竪堀 |
現状 |
山林 |
築城年 |
仁安3年(1168) |
築城者 |
野間高頼 |
歴代城主 |
野間 |
形式 |
山城(比110m、標353m) |
登城時間 |
居館から主郭まで約15分 |
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主郭 |
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圓珠寺から野間川を隔てた南の尾根中腹に突き出た山が城で、お寺に駐車させてもらいました。圓珠寺から野間川を南へ渡り、お寺の真南付近の道を山へ向かうと農道の先に赤い鳥居が見えます。それが登城口です。主郭に社殿が建ち、参道があります。 |
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南端の堀切 |
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【感想・メモ】 |
野間城は主郭から北東に向けて段郭があり、主郭の南側は一段高い櫓台になっていて社殿が建っています。その南には深い堀切があります。野間城は野間川の南にあり、山城の北麓には野間氏居館が、野間川の北側には野間屋敷があります。城の西方には大土峠があり、野間峠・猪子峠を通じる三街道が交わる要所を俯瞰し、地黄・倉垣方面をも望むことができる要衝に位置します。 |
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【歴史】 |
仁安3年(1168)、源(多田)満仲の後裔野間高頼が築城したといわれ、天正年間(1573-92)には高頼17代の末裔・野間豊後守資持が在城したといわれる。野間城の西方にある大土峠は天正8年、丸山城主能勢頼次が塩川勢を破った所で、翌9年には山城の南方山上に為楽山城を築いており、野間氏は余野氏と共に能勢三惣領の一つとして重要な地位にあったと思われる。 |
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