登城口の地図
鎌刃城
別名
所在地 米原市(米原町)番場
遺構等 曲輪、空堀、土塁、石垣、竪堀、
畝状竪堀、碑、説明板
現状 山林
築城年 鎌倉時代
築城者 土肥氏
歴代城主 土肥、堀
形式 山城
訪城日 2004/10/30
【道案内】


【感想・メモ】
かまはじょう
【歴史】
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番場地区からだけでも登リ口が3ヵ所あるようです。1つは、蓮花寺から。後の2つは、蓮花寺より南の高速のガード下を西に越えた所から登れ、登リ口には案内が出ているので分かります。「米原インター」を下り、国道21号を西進して、1本目の信号「樋口西」を左折して県道240号線に入ります。1.2km程道なりに行って左折し、左手高速の向こうにある「蓮華寺」を通り過ぎると、道路左手に鎌刃城の案内があります。田んぼの中の道を進むと名神高速のガードがあるので、ここから私は登りました。
ここから登ると大堀切に出ます。そこから少し行くと石垣が見られ、主郭の枡形虎口の周囲の石垣は特に圧巻です。郭が多くて段郭や堀切、大石垣など見所盛り沢山のお城です。
鎌倉時代、箕浦庄の地頭であった土肥氏が築城したといわれる。文明4年(1472)、京極持清の家臣・今井秀遠に攻められ、城主・堀次郎左衛門尉は討死した。天文2年(1533)近江守護で観音寺城主・六角定頼が今井定清に命じ鎌刃城を攻めさせ、天文7年、今井定清は堀氏に代わり老臣島秀安を城代とした。その後、堀氏は六角氏に降り鎌刃城主に返り咲いたが、永禄2年(1559)浅井長政が六角承禎に抵抗したため、堀氏も浅井氏に属した。元亀元年(1570)堀秀村は老臣樋口直房とともに織田信長に内応し、これを知った浅井長政は鎌刃城を攻め落とし、百々越前守を城代とした。姉川の合戦で勝利した信長は再び堀秀村を城主とした。翌元亀2年、浅井長政は一向一揆軍とともに鎌刃城を攻めたが、横山城を守備していた木下藤吉郎が援軍に駆け付け、落城を免れた。天正2年(1574)、堀秀村・樋口直房は改易となり、鎌刃城は信長の直轄城となったが、まもなく廃城となった。(米原市教育委員会資料参照)