長井坂城
車で三の丸を通って、二の丸付近まで行けます。三の丸、二の丸は畑になっていますが、二の丸には土塁がしっかり取り巻き、東〜南にかけて堀が巡ります。二の丸の北西隅に城址碑と説明板があり、この西側が沼田街道だったようです。二の丸の北西、沼田街道に面した位置に馬出し跡と標柱があったけど、これが馬出し?ちょっと意味不明です。二の丸の西が本丸で西側は足がすくむような断崖絶壁となり、それ以外の三方は土塁に囲まれています。本丸南の堀は幅が広く底部で幅5m程もあります。三の丸は二の丸の北〜東〜南かけて取り囲み、南側に堀が巡っています。全体にとても見やすく、土塁と堀がしっかりしていて楽しめます。
【感想・メモ】

二の丸の碑と説明板


【歴史】

三の丸南の堀

【道案内】
城跡の地図
永禄3年(1560)、長尾景虎(上杉謙信)が関東出馬の際、長井坂に陣を張り北条勢を脅かしたため北条勢は退去し、沼田城主・沼田顕泰は謙信に降った。この頃、長井坂城は謙信が築城したと思われる。天正初期に北条氏の持城となり、近隣の地侍集団が城番を勤めた。天正6年(1578)真田氏が沼田城を奪取すると、長井坂城が鉢形城を核とした北条方の北方最前線の要となり、天正8年(1580)8月、真田昌幸が赤城西麓を侵攻する際、この城を守っていた白井方の牧弥六郎・須田加賀守を追って占領したが、同10年10月上旬、北条氏邦が5千余騎で囲み、守将恩田越前守・下沼田豊前守が奮戦したが脱出するなど、北条・真田両氏激突の攻防が繰り返された。天正18年(1590)小田原落城と共に廃城となった。
関越自動車道「長井坂トンネル」の上にあり、上越線のトンネルがある西方の県道255号から東へ入り、道なりに東進すると城跡で、三の丸前に駐車場があります。

二の丸東の堀

二の丸土塁

別名
所在地 渋川市(赤城村)長井
遺構等 曲輪、土塁、空堀、碑、説明板
現状 山林、畑
築城年 永禄年間(1558-70)
築城者 上杉謙信
歴代城主 上杉、北条、白井長尾、猪俣
形式 崖端城
訪城日 2008/3/30
ながいさかじょう
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