高津戸城

本丸東の横堀
三の丸となる駐車場には説明板があり、展望台からの眺めが良いです。北側に二の丸、本丸と続き、本丸まで5分もかからず着きます。本丸には要害神社があり、本丸東側下の腰曲輪には井戸もあります。本丸北東尾根の堀切や東の横堀、三の丸南方の横堀など見応えがあるのですが、公園整備で道路が造られたため元の様子が少しわかりにくいのが残念です。
【感想・メモ】

井戸
【道案内】
城跡の地図
わたらせ渓谷鉄道「大間々駅」から東北へ約500m。大間々駅北側から県道338号で300m程東進して渡良瀬川を渡り、更に600m程東進して左折します。400m程北上した分岐は左手へ進み、更に500m程進んだ行き止りが駐車場で、既に三の丸です。
【歴史】
別名 要害山城
所在地 群馬県みどり市大間々町高津戸
遺構等 曲輪、土塁、横堀、堀切、井戸、説明板
現状 山林、高津戸公園、要害神社
築城年 観応年間頃(1350頃)
築城者 山田氏
歴代城主 山田、里見
形式 山城(比100m)
駐車場から本丸まで約4分
訪城日 2015/4/4

承徳・康和年間(1097-1104)、山田七郎吉之の子孫により仁田山地地域の一砦として築かれた。観応2年(正平6、1351)10代・山田筑後守則之の時、桐生国綱により滅ぼされた。建徳2年(1371)里見家7代・義連の三男氏連が国綱の娘を正室にし、仁田山八郷を国綱から任された。房州の里美実堯(勝広)は仁田山に住む一族の宗連に身を寄せていたが、宗連死後は桐生に移り二子(勝政・勝安)を上杉謙信に託した。ところが桐生親綱に誤解され、元亀元年(1570)実堯は切腹させられた。天正5年(1577)、父の仇を討つべく勝政・勝安兄弟は越後から帰り、上杉謙信の援助により廃墟だった高津戸城を修復した。しかし、天正6年9月17日、由良国繁の将藤生紀伊守らによって里見兄弟は討死し、落城した。天正18年以後、高津戸城も廃城となった。(現地説明板参照)
たかつどじょう
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