平安時代末期、後三年の役の内乱を鎮定した八幡太郎義家は、その後東国に強力な武士団を結成し、源氏は東国に基盤を築いた。義家の子義国は関東に下り、その長子義重が新田の庄を開き、新田氏の祖となった。義重の子義季は徳川の地を領して徳川義季と称した。鎌倉幕府滅亡後、義重の後裔義貞の南朝方と義康の後裔足利尊氏の北朝方とが争った南北朝の抗争に義季の後裔は義貞と運命を共にして敗北を喫した。その後、足利政権の圧迫を受けた義季の後裔有親・親氏父子は当地を離れ、親氏は仏門に入って徳阿弥と名乗り、松平郷(愛知県豊田市)に移って松平太郎左衛門信重の入婿になったと伝えられる。 |
徳川館 |
満徳寺から北側の東照宮一帯が館跡です。満徳寺南側・県道298号沿いに駐車場が完備されています。 |
満徳寺は遺跡公園という有料施設になっていて、朝早く行ったため中に入れませんでした。お寺の北側に東照宮があり、そこに徳川義季公館址の石碑があります。 |
別名 | |
所在地 | 太田市(尾島町)徳川町 |
遺構等 | 碑 |
現状 | 満徳寺、東照宮 |
築城年 | |
築城者 | 徳川氏 |
歴代城主 | 徳川 |
形式 | 館 |
訪城日 | 2009/4 |
とくがわやかた |