河和田城
【歴史】

河和田小学校の城址碑

報仏寺山門前の城址碑

天徳寺の堀と土塁

延元元年(1336)、大掾氏家臣・河和田入道鍛弾正定国が桜川流域を支配するため築城した。その後、上杉禅秀の乱による功で江戸氏がこの地を得て城主となった。応永33年(1426)、江戸通房が大掾氏より水戸城を奪取した後は重臣春秋氏が城主となった。戦国時代、江戸氏は佐竹一門の待遇を得て佐竹氏に従い、大掾氏らと抗争を繰り返したが、天正18年(1590)小田原の役後、常陸国統一を目指す佐竹義重・義宣父子による水戸城攻略の際に河和田城は落城し、廃城となった。(『図説 茨城の城郭』参照)
河和田小学校周辺一帯が城跡で、遺構があちこちに散在しています。
城域は南北600m、東西500m程あったようで、残存する遺構を見て歩くと雰囲気が掴めてきます。河和田小学校南東が主郭で、一部土塁が残ります。その北側の天徳寺が二郭でここにも土塁と堀が残ります。主郭南東の報仏寺も城域でお寺の山門前に城址碑があり、その脇に堀や土塁があります。河和田小学校にも城址碑があり、小学校南側の通りからも堀が見えます。

河和田小学校南東の土塁

報仏寺の堀


【道案内】
城跡の地図
別名
所在地 水戸市河和田町
遺構等 曲輪、土塁、堀、碑、説明板
現状 河和田小学校、天徳寺、報仏寺他
築城年 延元元年(1336)
築城者 河和田定国
歴代城主 河和田、江戸
形式 平城
訪城日 2008/1/26
かわだじょう
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