雉岡城
別名 八幡山城
所在地 埼玉県本庄市児玉町八幡山字城内4
遺構等 曲輪、土塁、横堀、井戸、馬出し、碑、説明板
現状 城跡公園、児玉中学校、児玉高校
築城年 寛政初期(1460)頃
築城者 山内上杉顕定
歴代城主 山内上杉氏、夏目氏、北条氏、松平氏
形式 平城
訪城日 2008/10 感想
築城年は不明だが、寛政の初期(1460)頃に関東管領山内上杉氏の家臣夏目舎人亮実基が築いたといわれる。しかし、関東管領の城としては地形が狭いため山内上杉氏は上州平井城へ移り、当城には家臣の夏目豊後守定基を置いて守らせた。永禄年間(1558-70)、鉢形城主北条氏邦に攻略され、鉢形北条の属城となり、横地左近将監忠春を城代として置いたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家によって落城した。徳川氏の関東入国後は竹谷松平氏の松平清宗が一万石で入封して城主となったが、慶長6年(1601)関ヶ原の戦功により2万石加増され、二代家清は三河国吉田城に転封となり廃城となった。(現地説明板、『中世北武蔵の城』梅沢太久夫著、『埼玉の古城址』中田正光著、『日本城郭大系』新人物往来社発行、『歴史ロマン 埼玉の城址30選』西野博道編著 参照)
【歴史】
大まかに分けると、主郭・二郭には児玉中学校が、三郭・東郭・北郭には児玉高校が建っていて、南郭と主郭・二郭・東郭の一部が城跡公園になっています。また、角馬出しに塙記念館があり、二郭と南郭の間の堀底には夜泣き石があります。公園には高い土塁、横堀、水堀が残り、城跡の一部ながら見応えがあります。他にも中学校へ行ってみると土塁や堀が見られ、探すとまだ遺構があちこちに散在していそうです。
【感想・メモ】
【道案内】

城跡の地図

きじがおかじょう
JR八高線「児玉駅」から西へ約800m。児玉中学校、児玉高校および児玉中学校の東南にある雉岡城跡公園一帯が城跡で、公園に駐車場が完備されています。
TOPページへ