宮崎城
別名 池内城、龍峯城
所在地 宮崎市池内町城
遺構等 曲輪、空堀、碑、説明板
現状 山林
築城年 延元元年(1336)
築城者 図師六郎入道慈円
歴代城主 図師、伊東、高橋
形式 山城
訪城日 2006/11/20
みやざきじょう
【道案内】 登城口の地図 城跡の地図
平和台公園の北方、県道9号と県道44号が交差する「池内南」信号から500m程北上すると、道路左手に宮崎城址の案内があるので、そこを左折します。道なりに300m程西進すると、左手に冠木門があります。ここが登城口です。登城口付近に駐車スペースがあります。他にも登城口がありますがここがお勧めです。
【感想・メモ】
登城口に説明板があり、冠木門をくぐって10分も登らないうちに、右手が目曳城址、左手が本丸城址の案内があります。目曳城址へ向かったら、右手は木立が続き、左手に一区画だけ草が刈られた削平地があり、その先はただの林でした。本丸は草が刈られ奥に鉄塔があります。そこから立派な空堀を見ながら土橋を越えますが、とにかく藪だらけで、写真だとただの藪。その先の曲輪へ行っても空堀だと分かるけど、藪だらけ。登城道は整備されていたけれど、城跡も藪を払って欲しいと思いました。
【歴史】
延元元年(1336)、南北朝の動乱期に図師六郎入道慈円が南朝方の拠点として築城し、後に伊東祐堯が領し、三位入道義祐も飫肥攻撃の拠点とした。義祐没落後、島津氏が領し、家老上井覚兼が入った。豊臣秀吉の九州征伐後は高橋氏が領した。慶長5年(1600)関ヶ原合戦時、伊東祐兵は家康に通じていたが、石田三成の誘いに兵だけを伏見城へ派遣し、黒田如水の意見により、子・祐慶を日向へ帰国させ、西軍に属した諸将の城を攻めた。その1つが宮崎城の戦いである。関ヶ原合戦時、日向国で東軍に属していたのは伊東氏のみだった。伊東の臣・清武城主稲津重昌は宮崎城兵の数倍の兵力でこの城を攻め、守将種盛以下は討死し、城は陥落した。関ヶ原の余波といえる戦いであった。