若子城 |
主郭へ
二郭南の堀切
説明板から右手へ進み、民家を過ぎて川沿いを歩くと橋があるのでここを渡ります。その先は岩で道が細くなっていますが、そこから7m程先を右手へ登ると城跡です。要所に案内表示があり、登城道は整備されています。5分も登れば主郭で若子神社がありますが、神社には大洞若子城主奥山加賀守貞吉公が祭られています。主郭の南側が二郭で南側が一段高くなっています。この南側に二重堀切があり、更に先にも小さな堀切があります。 |
別名 | 大洞若子城、大洞城 | ||
所在地 | 静岡県浜松市天竜区佐久間町相月 | ||
遺構等 | 曲輪、土塁、堀切、説明板 | ||
現状 | 山林 | ||
築城年 | 南北朝期 | ||
築城者 | 奥山定吉 | ||
歴代城主 | 奥山 | ||
形式 | 山城(比80m) 説明板から主郭まで約10分 |
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訪城日 | 2011/7/16 | 感想 | ○ |
わかごじょう |
JR飯田線「城西駅」から北東へ約300m。城西駅から国道152号で400m程北上した「向皆外」バス停を過ぎてすぐを右折します。橋を渡った右手前方にお城の説明板があり、説明板に向かって右手に見える山が城跡です。説明板付近に駐車しました。 |
水窪川と大洞沢に囲まれた要害にあり、信州街道が近くを通る。南北朝期に奥山氏の一族・奥山加賀守定吉が築城したといわれ、定吉とその子・大膳亮吉兼が居城した。元亀3年(1572)8月、信玄が家康領の遠江出陣に際し、高根城の加勢には松島小原氏の同心・大草衆が在城し、若子城には武田信豊・跡部勝忠の同心・知久衆が在番して臨戦態勢に入った。天正3年(1575)長篠の戦以降は家康の北遠奪還が始まり、武田氏は衰退して奥山氏も没落した。しかし、若子城主定吉が早くから家康に与したため、二男定茂が領していた中部領の3分の1と本貫地であった相月、雲名を孫の惣十郎に安堵された。 |