大森城
別名 臥牛城、白鳥城、鷹峰城
所在地 福島市大森字城山
遺構等 曲輪、土塁、空堀、模擬櫓、碑、説明板
現状 大森城山公園
築城年 天文11(1583)
築城者 伊達晴宗
歴代城主 伊達、片倉、木村、芋川
形式 山城(比60m)
訪城日 2006/4/30
【道案内】


【感想・メモ】
おおもりじょう
【歴史】
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東北自動車道「福島インター」を下り、国道115号を東進します。500m程東進した信号を右折して1km程南下し、左折して県道362号に入ります。600m程東進して右折した正面の山が城跡ですが、車で山頂近くまで上がれます。このまま道なりに行くと左手にお城の案内が出ているのでそこを左折します。あとは案内に従って山を上がっていくと、本丸手前の駐車場に着きます。
駐車場から主郭へ向かうと、立派な空堀があります。空堀に「城山空濠跡」の標柱もあります。主郭はだだっ広くて景色も良く、とても気持ちよいです。すぐ横に城山古墳もあり、石が良く残っています。二の丸には模擬櫓があります。
天文11年(1583)、伊達稙宗の三男・伊達実元が城主だったが、伊達14代稙宗と15代晴宗父子の内紛の際、実元は稙宗につき、大森城は稙宗方の重要拠点の一つとなった。天文17年に乱は終息し、稙宗は隠居し、実元の兄・伊達晴宗に家督相続され桑折西山城から米沢城へ移った後、兄と和解した実元は大森城主にとどまった。その後、実元は大森城を嫡男・伊達成実へ譲り、自身は八丁目城に隠居した。成実は伊達政宗の片腕として活躍し、天正14年(1586)政宗が二本松城を落城させると成実に与え、大森城は片倉景綱に与えた。政宗は大森城を仙道地方進出や相馬氏との戦いの中継拠点として用い、伊達氏の南奥制覇に大きな役割を果たした。 しかし、天正19年の豊臣秀吉による奥州仕置により信夫郡を没収され蒲生氏郷に与えられると、大森城主となった木村吉清は杉妻城を改修して福島城と改名し、そこに居城を移し大森城を廃した。氏郷の死後、蒲生氏が宇都宮城へ移され、上杉景勝が会津領主となり、大森城は再び取り立てられ、上杉氏家臣・栗田国時が城主となった。関ヶ原合戦直前に国時が徳川家康に通じたために殺害されると、芋川正親が城主となる。以後、大森城は芋川氏が代々続いたが、寛文4年(1644)上杉綱勝急死・上杉綱憲相続に伴う一連の騒動によって上杉領が15万石に半減され、信夫郡は天領となり、大森城は廃城となった。
城跡の地図