砥石城 |
JR赤穂線「大富駅」から南南東へ約2.5km。大雄山の西の山が城跡で、県道226号で千町川を南へ渡ると「砥石城跡入口」表示と説明板があり、ここからも登れますが、この突き当りを左折し、500m程南下した右手「砥石城跡登山道」石柱から登りました。このすぐ前に「宇喜多直家生誕之地」石碑があり、その前に1台駐車可能です。 |
宇喜多直家生誕之地碑
別名 | |||
所在地 | 岡山県瀬戸内市(邑久町)邑久町豊原 | ||
遺構等 | 曲輪、土塁、石垣、堀切、説明板 | ||
現状 | 山林 | ||
築城年 | 15世紀後半?、大永年間(1521-28)? | ||
築城者 | 宇喜多能家?久家?宗家? | ||
歴代城主 | 宇喜多氏、浮田氏 | ||
形式 | 山城(比95m、標100m) 登城口から本丸まで約10分 |
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訪城日 | 2010/4 | 感想 | ○ |
築城年は定かでないが、大永年間(1521-28)宇喜多和泉守能家が築いたとも、能家の父久家または祖父宗家が文明から明応年間(15世紀後半)に築いたともいわれる。能家は備前守護代浦上村宗に、後に二男宗景に仕えたが、天文3年(1534)6月、高取山城主島村豊後守の夜襲に遭い自害し、子興家及び孫直家は落ち延びた。島村豊後守は宇喜多氏の本拠地も押領したが、宗景はこの城を浮田大和守に与えた。天文16年、乙子城主となった宇喜多直家は主君宗景の軍勢と共に備中三村氏に内通した砥石城主浮田大和守を攻め落とし、砥石城は高取山城主島村貫阿弥(豊後守)の持城になったが、永禄2年(1559)主君浦上宗景の命により貫阿弥を謀殺して砥石城を攻略し、宗景から貫阿弥の領地と砥石城を与えられ城主に舎弟の浮田春家を置いた。その後、直家は主君浦上氏を倒し戦国大名として岡山城主となった。春家は直家の居城であった亀山城主となり、部将に砥石城を守らせたが、直家の備前国平定後は存在意義が薄くなり廃城となった。 (『日本城郭大系』新人物往来社発行、現地説明板 参照) |
登城道は整備され、尾根に出たら右手へ進むと本丸です。本丸からの眺望は良く、東側には石垣がありますが積み直したような雰囲気です。本丸から北へ下りると段郭がありますが結構藪です。本丸から南へと途中まで笠松明現宮の方へ進み、明現宮の少し手前を右手の鉄塔方向へ登り、更に120m程北へ進むと出城です。鉄塔から先は藪ですが、人が通る道は確保され、「砥石城出城跡」のプレートもあるので分かります(場所としては本丸の谷を隔てた西峰の頂)。出城も藪ですが、こちらには土塁があり、出城手前にはうっすらと堀切があります。 |
本丸東の石垣
本丸
といしじょう |