乙子城
【道案内】
天文13年(1544)、浦上宗景に仕えていた宇喜多直家が宗景の命によって築城した。直家は、天文12年、宗景の家臣となり、赤松晴政との戦功と祖父能家の旧功によって乙子城主となった。当時弱冠16歳で、後に備前国を平定し戦国大名に成長した城主としての第一歩を踏み出したお城である。乙子城は、当時天神山城を本拠に備前国の東半を支配していた浦上宗景の領地の南西端にあたり、児島湾と上道郡南東部をにらむ臨海性の戦術拠点であった。直家はこの城に5年在城し、この地の治安維持と戦功によって天文18年、新庄山城へ移った。その後、乙子城は持城として舎弟の浮田忠家を城主に置いた。永禄2年(1559)直家が亀山城主となり、忠家も亀山城へ移ると、この城には城番が置かれたが、直家の備前平定が進むと存在価値が薄らぎ廃城となった。

(『日本城郭大系』新人物往来社発行、現地説明板 参照)

【歴史】
城跡の地図
JR赤穂線「西大寺駅」から南へ約3km。吉井川を県道397号(岡山ブルーライン)「西大寺大橋」で東へ渡り、500m先を右折します。1km程南下した左手の小山が城跡で、登城口(北西となる大国主神側)に駐車できます。

別名
所在地 岡山県岡山市東区乙子
遺構等 曲輪、説明板
現状 大国主神、乙子大明神、墓地、山林
築城年 天文13年(1544)
築城者 宇喜多直家
歴代城主 宇喜多氏、浮田氏
形式 山城(比48m、標48m)
訪城日 2010/4 感想
西側の大国主神から東側の乙子大明神にかけてが城跡で、大国主神への登り口に説明板があります。ここから鳥居をくぐって階段を3〜4分も登れば本丸で、ここにも説明板があり、吉井川が見下ろせます。ここから東へ進むと墓地となり、更に東へ進むと二の丸である乙子大明神となりますが、遺構としては本丸・二の丸・腰曲輪がある程度です。登城口の道路を挟んだ北側には「宇喜多直家国とりはじまりの地」の石碑と説明があります。
【感想・メモ】

本丸

おとごじょう
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