【道案内】 |
城跡の地図 |
登城口の地図 |
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白鹿山が城で、南東麓の常福寺前の三叉路に白鹿城・真山城の案内図看板があります。この道を北上すると「白鹿谷登山口」がありますが、駐車スペースがないため、山の北西の「西の谷登山口」から登りました。登城口前に説明板があり、駐車スペースもあります。 |
【感想・メモ】 |
5分も登れば右手に連続する堀が見られ、この上が大井戸のある郭、そこから堀切を進み右が頂上、左が本丸とあり、?。普通は頂上が本丸でしょう。良く分からないのですが、普通でいう本丸は一ノ床となっていました。一ノ床は東西に長く祠があり、その先に二ノ床、三ノ床と続き、このまま下ると白鹿谷登山口となります。また、大井戸のある郭の下の分岐から「小白鹿城・うぐいす台」とある南西尾根へ進むとすぐに大黒丸が、その先100m程尾根道を進むと小白鹿城となり、眺望が開けています。 |
【歴史】 |
築城に関しては詳細不明。戦国時代に尼子氏本拠であった月山富田城を防衛する上で、島根半島一帯は水運や軍事上重要であったため、白鹿城を築いて戦略拠点とした。尼子打倒と出雲制覇を目論む毛利勢は、元就をはじめ吉川元春、小早川隆景が出雲に乗り込み、永禄5年(1562)宍道湖北岸に荒隈城を築き富田城攻めの向城にした。翌永禄6年、半島の拠点である白鹿城を幾度かの攻防戦の末に落とした。この頃は尼子晴久の姉婿松田誠保が白鹿城主だった。その3年後に富田城も落とした。すぐ北の真山城は、白鹿城に対する毛利の向城として築かれた。 |
【参考資料】 |
『島根県中近世城館跡分布調査報告書(出雲・隠岐の城館跡)』島根県教育委員会発行
『山陰の城館跡〜攻防の跡をたずねて〜』山陰史跡整備ネットワーク会議(小冊子) |